心の刃 stab 双利
まだ1時間も過ごしていない今日の中で何度黙り込んだろうか。
長い自己問答の末、結局姉への反論ができず自分の本心と弱さを認めざるを得なかった僕は通路のど真ん中でまだ立ち尽くしていた。
「あのー、二人とも大丈夫ですか? 」
黙って向かい合う姉弟の沈黙を破ったのは先を歩いていたアユリさんだった。
病室を出てからどれだけの時間が経ったのかは分からなかったが僕らを結構な時間待ってくれていたのだろう。
とりあえず、彼女の心配に返事をしなきゃな。
このやり取りはこの数日で何度もしている。
"大丈夫?"に対しては"大丈夫だから心配するな。"
これ一択だ。
だから僕は振り返って躊躇なく反射的に
「ああ、大丈夫だか…… 」
「大丈夫じゃないでしょ? 」
「え……? 」
後ろからの聞き慣れた声が聞き慣れない口調で僕の返答を遮った。
そのまま真剣モードの姉貴は続ける。
「そんな顔で"大丈夫"なんて言わないで。 言ったばっかでしょ? 無理するなって。 そろそろ誰かに相談なりなんなりしてその顔どうにかしなさい。 悲しめないのは良いよ。 誰も責めないし責められない。でも、そんな悩みとか自己嫌悪だけの表情でお母さんを見送ることだけは…… 」
自分がどんな表情なのかを見ることはできないが、その口調と雰囲気からかなんとなく今の表情が浮かぶ。
酷い顔だ。
普段ふざけたような態度ばかりの姉だからこそ、いつもと違う言葉の一つ一つが鋭利さを増し僕の胸に突き刺さる。
そして最後の一言。
そこに込めれた感情は……
「……私、許さないから。」
怒りだ。
悩むことで母から逃げ続ける僕へ初めて見せる静かな憤怒。
それはあまりに鋭く、あまりに的確に僕の心を貫いた。
普段の親父、学校の先生や道場の師範。
17年間いろんな人に何度も怒られた。
でもそんな僕に向けられる怒りの刃は過ちを正すものだけでなく、常にいくらかの理不尽が含まれていて、とても粗いものだった。
持ち主は無意識でも平気そんなものを使うから、踏み入れられたくない部分や傷つける必要のないところまで一緒に切りつけていく。
人が人に向ける怒りなんて大体そんなもんなのだろうが、今迄それらに対して何度反感を持ち、何度悔しさを覚え、何度涙を流したか。
それらを一々詳しく覚えているわけでもないし、数えられたとしてもきっとキリは無い。
でもこれは分かる。
大して人に怒ったこともなければ、こんな評価を出来る程人生経験に富んでもいないが、これだけは分かる。
今の姉貴の怒りは僕にとって完璧だった。
何の無駄もなく、ただ僕の弱みを貫く為だけに研ぎ澄まされたアイスピックのような刃。
その完璧な刃先による完璧な一突きは力強く僕の決意を促す優しい一撃だった。
またしばらく沈黙が続く。
でもこの沈黙はこれまでと違う。
決心のためのひと時だ。
さっきのやり取りで姉貴が何を与え、僕が何を得たのか。
まぁ、多くは語るまい。
語ろうにも多分まとまらない。
母にどう向き合うべきかはまだ分からないから。
でもすべき事は分かった。分からせてくれた。
だから僕は前を向いた。
自分がどんな表情なのかを見る事は出来ないけれど、僕の顔を見せたときの姉貴の表情と雰囲気からなんとなく今の顔が浮かぶ。
我ながらきっと良い顔だ。
怒られたあとはごめんなさいが子供の頃からの鉄則だ。
でもそれは今相応しくない気がするし、何より姉貴に伝えたいのは違う言葉だ。
ありがとうは堅苦しいし、なんか小っ恥ずかしい。
だから僕は満足気に立ち去ろうとする姉の背中に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で
「サンキュな、姉貴。 」
きっと聞こえたのだろう。
姉貴は振り返り、これ以上ない笑顔で僕に笑い掛けた。
その笑顔はより僕の背中を押すこととなりその勢いでアユリさんの方を向く。
もう迷う事も逃げる事はない。
彼女の目を見てはっきりと、
「聞いてほしい事がある。」
「ええ、もちろん。」
アユリさんもまた笑顔を見せて応えた。