親父と母 parents of 双利
「母さん!!」
5月19日 日曜日の正午
院内に太い声が響き渡る。
僕の親父が病室の扉を勢いよく開け、母の名を叫んだのだ。
年齢からは考えられない親父の走りに置いてかれた僕も追いつき、後に続いて病室に入る。
病院だから走る、叫ぶという行為がご法度であることは僕も親父も百も承知だが、今は明らかにそんな事を気にしている場合ではなかったし、周りの看護婦達も事情を知っているからか何も注意はしてこなかった。
病室に入ると、いつも以上に多くの機械やチューブをつけて横たわっている母の他に深刻な顔をした白髪まじりの担当医の男がベッドの横に立っていた。
親父はすぐさま母のベッドにかけより、近くの機器から心拍数などを見て生きていることを確認したのだろうか、少しの安堵が伺えた。
僕も置いてある機械の数と医者の深刻な表情でありながらも落ち着いている様子から、とりあえずの処置は終えれたと考えていいのだろうかと考えていると担当医が口を開いた。
「今は薬の効果でなんとか容態が安定していますがもう長くは……」
覚悟はしておいてくれ。そういうことだろう。
17年前の5月22日。
その日に母は僕、祇峰双利を産んですぐ昏睡状態に陥ったらしい。
原因は今でも不明だそうだ。
そしてそれ以降、母は一切意識を取り戻すことなく僕は親父と姉に育てられた。
今の僕は17歳の高校2年生。つまり母は約17年間寝たきりということだ。
だから僕は母をよく知らない。
言葉を交わすどころか目を合わせたこともない。
親父や姉貴はよく母の性格や趣味、二人が出会った学生時代の思い出などいろいろ聞かせてくれた。そのおかげで母:祇峰真由子の人物像は確かに僕の中にある。
"母のこと"は結構知っているつもりだ。なんとなく祇峰真由子がどんな"人"かも予想がつく。
だが僕は祇峰真由子がどんな"母"であるかは分からない。
母としての祇峰真由子を見たことがない。
会ったこともない。
感じたこともない。
だから"母を知っている"と僕には言えない。
それがあってだろうか。さっき親父から母の容態が急に悪化したらしいと伝えられたときも正直心の底から心配できなかった。
急いで病院に行くぞと言われたときもそこまで焦れなかった。
いや、母の窮地に対して何も感じなかったわけじゃない。
心配はした。
焦りもした。
当然今もしている。
でも電話で母の危機を伝えられてからの親父の必死さや焦りを見ると自分の今の感情に"浅さ"を感じた。
明らかに僕たち親子の感情には大きな温度差があった。
だから病院の駐車場からの父の足の速さについていけなかったのも今思えば納得だ。
親不孝と言われても文句は言えまい。
ああ、今だってそうだ。
さっきの医者の言葉、膝から崩れ落ちて涙を流す親父、一切言葉を交わすことなくこの世を去ろうとしている母。そのどれを見ても聞いても僕の気持ちは深まらない。深められない。
母を失う悲しみを差し置いて罪悪感のほうが強くが押し寄せてきてしまう。
涙を流すこともできず、ただ下を向くことしかできない。
そんな自分が二人の息子として嫌になる。