其の七
†7†
「呆れたな」
煌鷹がぽつり、と呟いた。
「あれを御して山に送るなんて。まさに調伏だね」
智明もうんうん、とうなづいている。
しかし、雅紀には一体何のことか分からない。
「やれやれ、これじゃあ、蛇神にはまだ十分な力が残っている。どうしようもないとは思うが……」
煌鷹が指を鳴らすと、その背後に揺らめいていた影が濃くなった。
正確には、影の中から何者かが浮かび上がってきた。
先ほどから何度か、煌鷹の背後にちらついて見えたのはおそらくそれだ。
雅紀は瞬時に理解した。
浮かび上がってきたのは黒いローブ姿の、身の丈二メートルほどの人間。手には一冊の分厚い本を抱えている。
フードに半ば隠れたその顔は、どういうわけか老媼にも少年にも見え、ともすると老爺とも中年の女性とも取れる。またその表情も喜怒哀楽愛憎のいずれでもあり、いずれでもないように見えた。
その足元に明滅する魔法円が、その者の名と、属する世界観を示していた。すなわち、
「ダン……タリ、アン……」
「そう。叡智の大魔神、ダンタリアン公爵。僕の守り本尊だ」
魔神は答えず、左手で彼女を指さした。
それに対して彼女は猿田彦の槍を向ける。
両者それきり、まるで動かない。
いや、なにがしかの応酬は行われているのだ。
耐え難い、振動と圧力とが絶えず空間を揺さぶり、不快な耳鳴りが鼓膜を冒す。
雅紀は何も出来ず、何も言えないまま、その様子を見ているしかなかった。
知らず知らず、握りこんだ手に汗がにじむ。
そのまま、どれほどの時間が経ったのか。
永劫とも刹那とも感じられる時の末に、決着となる一撃を繰り出したのはどちらなのだろう。
――業!!
突如として陣風が巻き起こって、社の中を吹き荒れた。
思わず目を閉じる雅紀。
その風音の中に、無数の人間の無数の声が入り交じって聞こえた。
風はすぐにおさまった。
雅紀がゆっくり目を開けると、魔神の姿は消えていた。彼女の姿もまた。
あわてて社の出口に目をやると、巫女装束の小豆が倒れていた。
先ほどまでの異形の気配は消え去っているが、代わりに一匹の白蛇がそばにいて、小豆を守るように煌鷹を威嚇している。
「気にせずとも、もう今日は何もしないよ。……行こう」
煌鷹は智明を促して社を出、白蛇から視線を外さずに脇を通り抜けて去って行った。
「小豆は……大丈夫なのか?」
雅紀はなんとか身を起こすと、倒れている小豆に駆け寄った。
白蛇の姿がすっ、と消える。
「小豆?」
抱き起こして呼びかけると、小豆はゆっくりと目を開けた。
「雅紀、煌鷹は……?」
「……逃げた」
「まあ、仕方ないわね。それより、今は休まないと」
小豆は自分で起きようとしたが、すぐにバランスを崩してしまう。
「神降ろしはやたらと消耗するのよ。まして今度は、八尺様とやりあったじゃない」
「ああ、そうだな」
雅紀が肩を貸して立ち上がり、社を後にする。
人を吹き飛ばすほどの衝撃だった八尺様の叫びは、しかし人以外のものにはまったく影響を及ぼしていなかった。
その直後に吹き荒れた陣風もまた然り。灯明は消えているが、風などいつ吹いたのかというくらい、まるで影響がなかった。
雅紀は不思議に思ったが、きくのはやめた。
おそらく、そういうものなのだ。
社の前には煌鷹のSUVはもうおらず、代わりに朝倉のワンボックスが停まっていて、いつもの不機嫌そうな顔で煙草をふかしていた。
「お前ら、無事だったか」
「ええ、なんとか。叔父さんも無事だったみたいね」
「まあな」
お互いに少なからず消耗しているせいか、交わす言葉も少なくなる。
それきり、互いに何も言わないまま、三人は車に乗り込んだ。
後部座席に座ると、隣に座った小豆が不意に手を握ってきた。
「え……?」
「あのね、雅紀……。今日は、その、ありがとう」
雅紀が戸惑っていると、小豆は耳まで真っ赤にしながら、こっちに顔を向けた。
「その、ちゃんと審神者を務めてくれて」
「ああ、うん……」
八尺様が去った杉集落がこれからどうなるかは分からない。
煌鷹が次に繰り出してくる手も分からない。
だが、不思議なことに、煌鷹とはもう二度と敵対することがない、そんな気がしていた。




