其の六
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学校に戻った小豆はすぐ美術室に設けたままの祭壇に向かった。
三方に乗せた石を祭壇に上げ、祭文を唱え始める。
雅紀は、小豆の後ろに座ってその儀式を見ていた。
まだまだ半人前以下の雅紀にできることなどほとんどないし、今回は神様を直接降ろすというような話ではない。
だから、雅紀は本当にいるだけ、のような状態だった。
朝倉は戻ってすぐに呼び出しがあって理事長室に出向いており、ここにはいない。
窓には暗幕が引かれ、灯明の揺らぐ灯りだけに照らされた美術室には、独特の空気感が満ちている。
それも、神社のような静謐な空気ではなく、もっと淀んだ空気。
家の中の匂いと、庭から立ち上る匂いとが入り交じった、雨の日の縁側のような、じっとりと湿り気を帯びて重い空気だ。
気のせいか、その空気感は次第に強くなっているような気がして、雅紀は思わず身震いした。
小豆は、一心不乱に三十分ほど祭文を唱え続けただろうか。
ふ、と口をつぐみ、雅紀の方を振り返った。
「ど、どうしたんだ?」
たずねた雅紀に答えず、口元で小さく笑う。
「……来たわ」
どこか遠くから、機械の作動音のような、高い音が聞こえてきた。
音は瞬く間に大きく、高くなっていく。
耳を、というより脳を直接揺さぶるような高音に、雅紀は耳を塞いだ。
「雅紀、あたしが儀式を終わらせるまで、窓もドアも絶対に開けないで」
小豆は再び祭壇に向くと、神楽鈴を手に取ってしゃん、と鳴らした。
それに呼応するように、美術室前側のドアが大きな音を立てて撓んだ。
雅紀は慌てて立ち上がり、ドアの方へ走る。
暗幕の隙間から外を見ると、白い人型の何かがくねくねと動いていた。
いったん壁側に移動したそれが、ドアにぶつかってくる。
ばんっ!
ドアが今にも外れそうになるのを、雅紀は必死で押さえた。
どうやら、さっきの音も白いくねくねがドアに体当たりした音だったようだ。
背中でドアを押さえながら見ると、小豆は神楽鈴を手に、祭文を唱えながら舞っていた。
流れるような動きと、いつになく真剣な表情。
それは、普段の彼女とはまた違った一面であった。
ばんっ!
三度目の体当たりの後、前側への攻撃は止んだ。
だが、すぐに今度は後ろ側のドアががたがたと揺れ出す。
雅紀はドアが開かないよう、しっかりと押さえた。
『土田ー? ちょっと、開けてよ。浅井くんも。いるんでしょ?』
ドアの向こうから朝比奈の声が聞こえてきて、雅紀は一瞬、戸惑った。
それを見透かしたかのように、もう一度声がする。
『ねぇ、開けてよ。うちのことシカトする気?』
声も話し方も朝比奈そのものだった。
だが、雅紀の直感は「開けるな」と叫んでいる。
『開けてってば。ねぇ、開けてよ』
なおも聞こえる朝比奈の声。
そこに奇妙な違和感を覚えて、雅紀は己の直感に従うことに決めた。
『開けてよ、浅井くん。おかしいでしょ? なんでうちのお祓いなのにうちが入れないんさ?』
雅紀はドアから手を離さないまま、ずっと耐えていた。
そうする内、ドアの向こうから気配が消えた。
「こ、今度はどこだ――?」
雅紀はどこに相手が現れてもすぐに駆けつけられるように身構えた。
次の瞬間。
ばんっ!
ばん!
ばばんっ!
窓が三枚、同時に大きな音を立てた。さきほどとは違う、掌で叩くような軽い音だが、何度も叩かれればその内ガラスが割れかねない。
雅紀がそちらに向かうと、今度は前側のドアががたがたと揺れ始める。
「なんだよ、これは!?」
相手はどうあってもこの部屋に侵入しようとしている。
それがわかって、雅紀は祭壇の脇に掛けてあった槍を手に取った。
穂先まで全てが木で造られた、祭礼用のものだが、武器が何もないよりはマシだろう。
雅紀はその程度にしか考えていなかった。
その槍をがたがた揺れるドアに向けると、揺れがぴたりと収まった。
窓の方に向ければさっきまで掌で叩くような音が連続していた窓が静かになる。
『なにそれ……? なんでうちにそんなの向けるわけ? わけわかんないよ……?』
廊下から朝比奈の声が聞こえる。
ただし、ドア一枚をへだてたにしては妙にくぐもった声だ。
槍を向けたことで、白いくねくねに何かあったのかもしれない。
『ねぇ、ちょっと……』
「お前は、朝比奈さんじゃない」
雅紀は槍を向けたまま、白いくねくねに言い放った。
全校の有名人である朝比奈の、歪んだ笑顔が脳裏によみがえる。
そして今日、憑物が落ちたようなスッキリした表情でお礼を言いにきた姿も。
『そんなこと言わないでよ、浅井くん……。うちは、ここに』
白いくねくねはなおも言葉を重ねようとしたが、中途半端なところで終わった。
「えっ……?」
雅紀の口から漏れたのは、素朴な疑問符。
「なにが、起きたんだ?」
雅紀はそっと暗幕を持ち上げて廊下の様子を見た。
白いくねくねは、消えていた。
美術室内に目を戻すと、小豆が大幣を左、右、左と振って清めを終えたところだった。
「……終わった、のか?」
「ええ、終わったわ」
小豆がうなづいたので、雅紀は手探りで壁のスイッチを押した。
蛍光灯の白い光が薄暗かった美術室を照らし出す。
と、小豆が雅紀の持つ槍に目を留めた。
「あら、その槍……」
「あ、ごめん」
「いいえ、いいのよ。どうせ緊急事態で咄嗟に持ったんでしょ? それはね、天孫の先触れとなる猿田彦の槍よ」
「それって、すごいのか?」
「いえ、別に。どこの神楽でもやる演目だし、槍だって何年か前に新調したばっかりよ」
「なんだよ、それ」
大層なものでないと知り、雅紀は拍子抜けした。
「でも、結界を構築して侵入を防ぐにはいい祭具だったんじゃないかしら。なにしろ、猿田彦の舞は国津神を平定する舞でもあるんだから」
小豆はくすくす、と小さく笑った。




