其の十
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小豆が祭文を唱えて金剛鈴を打つと、その音とともに眩い閃光が辺りを包み込み、雅紀は思わず目を覆った。
それでもなお視界を白く染め上げる強烈な光に、声にならない悲鳴を上げる。
少しして光が和らいだので、ようやく雅紀は目を開けた。
雅紀たちと怪物たちの間に割って入るように、新たな存在が顕現していた。
姿は小豆そのものだ。寸分と変わりはない。
だが、その身にまとう存在感はまったく異なっている。
器は同じだが、中身が違う、と言えばいいのだろうか。
普段の小豆がカラッとしたサイダーなら、目の前にいる彼女はどろりとした汁粉。
それほどの違いがあるにも関わらず、外見はなんら変わらないのだ。
そこに、雅紀はいい知れない恐怖を抱いた。
『ねえ、雅紀――』
彼女が、たずねた。
声もまた、小豆そのものだ。
だが、いくぶんかトーンが低い。
『あたしは、誰?』
抽象的な問いだった。
直感で、と言われても、その直感が果たして信じていいものかわからない。
『ねえ。あたしは、誰――?』
「き、キミは……」
答えを言いよどんだ雅紀を挑発するように、
彼女が振り向き、笑った。
妖艶な、笑みだった。
小豆であればまずしない類の笑い方。
「キミは……」
雅紀は心の内にふ、と浮かんだ言葉を口走った。
そのとたん、彼女は口元だけでふ、と笑った。
『正解。残念ね、せっかくの依代だったのに』
彼女が無造作に手を振ると、突然強い風が吹き出した。
時ならぬ舞風に雅紀はその場にかがんで顔を伏せた。
風音の中に怪物の唸りや金切り声、女の笑い声が聞こえた気がした。
しばらくして風が収まると、雅紀はおそるおそる顔を上げた。
周囲にあれほど立ちこめていた霧はすっかり晴れており、怪物の姿もなかった。
「おい……、浅井」
誠が少し離れた場所を指さした。
そこに、小豆がうつ伏せに倒れていた。
すぐそばには、倒れた拍子に外れた眼鏡と、手に持っていた金剛鈴が転がっている。
「小豆……?」
雅紀が駆け寄って肩を揺するが、反応はない。
「小豆、おい!」
ぐったりと脱力しきった小豆の体は重く、雅紀には抱き抱えるのが精一杯だった。
「手伝うぞ?」
「いや、いい。オレ一人で十分だ」
「でも、もう息が上がってるじゃないか」
「それでも、一人でやる。そう決めた」
正直、雅紀はまだ、誠の呪いが完全に解けたとは思っていなかった。
だから、下手に箱を渡す気にも、小豆を任せるつもりにもならなかった。
そんな警戒が伝わったのか、誠はため息をつくと先に立って歩き出した。雅紀は相変わらず反応のない小豆の体を抱え、足を引きずるような形のまま後に続く。
二人でトンネルを探しながら、五分ほど歩いただろうか。
早くも、雅紀は限界を迎えた。
霧の中ではいくらでも走れたのに、晴れてからはひどく体が重い。
「……んっ」
そんな時、小豆が小さな呻き声を出した。
「小豆!?」
雅紀は小豆の体を地面に降ろし、もう一度肩を揺すった。
「まさ……き?」
小豆がゆっくりと目を開けた。
雅紀が眼鏡を差し出すと、ゆっくりとした動作でかけ、力なく笑った。
「無事に済んだ、みたいね」
「一体何をしたんだ?」
「一言で言うなら、そうね『神降ろし』よ。うちで祭ってる蛇神を降ろしたの」
「今、なんて?」
「だから、あたしのうちで祭ってる神を降ろして、力を借りたのよ。本当なら審神者が必要になる危険な技だけど、あの状況じゃ他に方法が思いつかなかった。だからあなたに審神者の役目を押しつけたの」
「……そうか」
雅紀には継ぐべき言葉が思いつかなかった。
「雅紀……ごめんなさい」
「え?」
「ううん、なんでもないわ」
小豆は立ち上がると周囲を見回した。
「トンネルは……たぶんあっちね。帰るわよ」
自信満々で歩いていく小豆。だが、その足下はまだ少しふらついている。
雅紀は小走りで小豆に追いつき、隣でその体を支えた。
誠が苦笑しながらその後に続く。
やがて、三人は林道に行き当たる。
「やっと着いたわね」
「ああ。あともう少しだな」
「ええ。……叔父さんに連絡するから、ちょっと携帯貸してくれる?」
雅紀がポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面は見事にひび割れていた。
「あー、暴れたしな」
「雅紀のじゃないわよ、あたしの。バッグに入ってるはずよ」
「あっ、そうか」
雅紀は小豆にスクールバッグを返した。
小豆はそこから自分のスマートフォンを出し、電話をかけ始める。
「……あぁ、叔父さん? ちょっと迎えに来てくれる? うん、そう。山上梅の方なんだけど。えっ? ええ。じゃあお願いね」
電話を切ると、ぱちんとウィンクを一つ。
「叔父さんが来てくれるわ」
「なあ、浅井。その、土田の叔父さんって怖い人だったりするか?」
「雨森は知らないのか。小豆の言う叔父さんってのは、朝倉先生のことだぞ」
「そ、そうなのか?」
「ああ。確か先生の従兄が小豆の父親なんだっけか」
雅紀はいつかにぽろっと聞いただけの話を思い出しながら誠に教えた。
「まあ、そんなわけで便宜上叔父さんって呼んでるけど、実際はもっとめんどくさい呼び方なんだよな」
「ええ、そうよ。従兄叔父とか、なんとか」
黙って聞いていた小豆が口を挟んだ。
「まあでも、面倒だから叔父さんでいいのよ。小さい時からずっとそう呼んでるしね」
「まあ、オレも従兄を兄貴って呼んでるし、似たようなもんだな」
「変わってるな、お前ら。ところで、オレは一体何がどういう事になってたんだ?」
誠が不思議そうに首を傾げた。
「そうだな……。ちょっと化け物じみてた。猿っていうか、まあそんな感じ」
「猿? 猿だって?」
「ああ。歯茎を剥き出しにして威嚇したりな」
「じゃあ、ずっといたら、オレもあの化け物みたいになってた、ってことか?」
「ええ、きっとそうでしょうね。たぶん、かなり侵食が進んでるはずよ。でも、この灰を川に流せばたぶん、大丈夫」
「たぶん?」
「今回使われたのは犬神よ。どうして猿になったのかはわからないけれど、何かを呼ぶための供物にしようとしていた形跡があるわ」
「供物って、何のだ?」
「知らないわよ。よく分からない古代文字が書いてあったわ。直線と斜め線で構成された文字」
小豆がバランスを崩しそうになり、雅紀は支える手に力を込めた。
「解読できればあいつの狙いも少しは読めたのかもしれないけど、また今度ね」
「そうか。でも、小豆が無事で良かった」
「それはどっちの意味?」
そう言われて、雅紀は答えに迷った。
小豆がきいているのはおそらく、友人である小豆か、煌鷹の妹である小豆か、ということだ。
確かに煌鷹の狙いを知り、阻止する上で小豆の存在は非常に重要だ。
だが、雅紀としては友人である小豆の存在もまた大きかった。
どちらを選ぶなどということができず、ゆえに悩む。
雅紀が返答に窮していると、小豆がふ、と笑った。
「まあ、あなたならそうやって悩むだろう、とは思っていたわ」
「趣味が悪い」
「う、ふふ、ふ……。ごめんなさい、雅紀。ちょっとからかいたくなったのよ。一件落着して気が抜けたのかしらね」
そう言って、小豆は笑う。
魔女を名乗る巫女の柔和な笑みとともに、秋風が吹き抜けていった。




