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霧雨市怪奇譚 霧雨の巫女  作者: 野崎昭彦
第五章 ヒサルキ
48/65

其の九

   †9†


霧雨きりさめの巫女が申し上げます。ここにまがしき神を封ぜる外道の箱を開き、封を切らんと思いますれば、悪しき事、やましき事より我が身を守らせ給え。律令が如く疾く為せ」


 ちりん。


 小豆あずき金剛鈴(こんごうれい)を一つ打つと、やしろの中に踏み込んだ。

 社に満ちた冷気に身をすくめながら祭壇の前に立つ。

 祭壇に捧げるかのように置かれた壷には縦と斜めの直線で構成された古代文字が等間隔でびっしりと刻まれている。

 小豆には解読できないが、おそらくは何らかの術式が記述されているに違いない。


「霧雨の巫女が申し上げます。ここに禍しき神を封ぜる外道の箱を開き、封を切らんと思いますれば、悪しき事、病しき事より我が身を守らせ給え。律令が如く疾く為せ」


 ちりん。


 祭文さいもんを唱え、金剛鈴を打ってから慎重にふたを開けてみる。

 寸刻の間を置かず、激烈な臭気が立ちのぼった。枯れ草と鉄錆てつさびと、それから腐肉の臭い。

 小豆は思わず後ずさると、鼻と口をハンカチで覆ってもう一度近づいた。

 壷の中に入っていたのはなにがしかの生物の肉のようだった。

 長い間ここに置かれているのか、だいぶ腐敗が進んでいる。


「酷い……。でも、これは呪いの本体じゃなさそうね」


 小豆は祭壇に目を向けた。

 神鏡を中心に据え、さかき神酒みきが捧げられている。そして、神鏡の前に両手に乗るくらいの大きさの箱が一つ。

 やはり縦線と斜め線で構成された古代文字が赤黒いインクで書かれている。


「この祭壇に祭られてるのは日本の神ではないのかしら。あるいは、どこかの神と合祀ごうしすることで習合しゅうごうしようとした?」


 箱に触れようとした時、指先に小さな痛みが走った。

 見れば、指先に小さな傷ができて、血の玉が浮かびだしている。


「ふうん。無駄な抵抗ね」


 小豆は傷口を嘗めると金剛鈴の柄を握りなおした。

 ゆっくりと目を閉じ、息を吸い込む。

「霧雨の巫女が申し上げます。禍しき神を封ぜし箱を打ち砕き、禍事まがごとごとことごとく破りてさいの彼方へと追いやらいくださいませ。これもまた律令が如く疾く疾く為されますよう」

 一息に祭文を繋げて金剛鈴を打つ。


 ちりん。


 澄んだ音が響き、若干冷気が和らぐ。


「効いてるじゃない」


 小豆は知らず、笑顔になっていた。


「この場を、あたしに、明け渡し、なさいっ! 外法の、末裔が、デカイ顔、してんじゃ、ないわよっ……!」


 ちりん、ちりん、ちりん……。


 小豆は激しい言葉をぶつけながら、何度もなんども金剛鈴を打った。


「このっ、腐れ外道!!」


 最後に、金剛鈴を逆さまに持つと頭上高くに持ち上げ、一気に振り下ろした。


 ――――ちりん!


 一際大きな音がして。


 ぴしっ。


 箱の上面に大きな亀裂が入った。

 古代文字を取り消すように、ほぼ一直線に。

 小豆は緊張しつつ箱に手を伸ばした。

 今度は痛みが走ることもなく、あっさりと蓋に手が届く。

 箱を開けると、中には犬科の動物とおぼしき頭骨が納められていた。

 乾燥して黄ばんできた頭骨のひたいには、例によって古代文字が刻まれている。

 空気に触れた頭骨はどういうわけか縦横にひびが入り、粉々に砕け散った。

 小豆はその箱を手に取ると、元のように蓋を閉めてスクールバッグにしまった。


「これは後で川に流すとして……雅紀まさきはどうしたかしら?」


 社の外に出ると、広場の外れに雅紀が肩で息をしながら立っていた。そのかたわらではまことが木の幹に背を預けてしゃがみ込んでいる。


「終わったのか?」

「ええ、なんとかね。どこか異国の、古い呪術を応用してたみたいよ」


 雅紀にそう言うと、誠に向き直った。


雨森あまもりくん、気分はどうかしら?」

「なんか、夢から覚めたような気分」


 誠は木を支えにして立ち上がった。


「あと、長距離走の直後みたいに体がだるい」

「いままであなたの体にはそれだけの負荷がかかってたのよ。さ、帰りましょ」


 歩きだそうとした時、小豆はふ、と視線を感じた。

 辺りを見回すが、立ちこめる霧の向こうを見通すことはできない。


「どうした、小豆?」

「さて……どうしたものかしらね」


 周囲の、まったく自然の音がしなかった林の中が急に騒がしくなった。

 落ち葉や下生えを踏みしだく音、茂みをかき分ける音。

 猿のそれに似た、しかし明らかに違う金切り声。

 何者かの気配が、四周全てから聞こえてくる。

 おそらくは夢の中で誠が変貌へんぼうしていたという怪物か、その同類。


「な、なんだ……?」

「取り返しにきたのよ。彼らの神をね」


 小豆は眼鏡を直すと、一歩を踏み出した。


「ここからが正念場ね。二人とも、走るわよ」

「えっ?」

「お、おう」


 戸惑う男たちを捨て置いて、小豆は元来た道に向かって歩き出した。

 二人分の足音が後に続く。


「なあ小豆、方向はこっちで合ってるのか?」

「たぶんね」

「ちょっ、おい……」


 どっちに進めば逃げきれるかなど、小豆にもわからない。ただ、直感に従うだけだ。

 横合いから生白くやせ細った人影が出てきた。


「うっ……」


 ぎょろりと大きな目をき、乱杭らんぐいの牙が並ぶ口を大きく開けて三人を威嚇する姿は、洋画にありがちな人間のパロディを忠実になぞっている。


「道を開けなさい!」


 小豆が金剛鈴を打とうとした時、後ろから飛び出した雅紀が怪物の腹部に蹴りを見舞った。

 鈍い音がして、怪物はその場にうずくまる。

 他の追っ手の気配はまだ遠い。どうやらこの一体はたまたま近くにいたようだ。


「先を急ごう」


 雅紀がそう言って、小豆たちはまた歩き出した。

 しかし、不慣れな山林を走っている上に誠が本調子でないこともあって、次第に追っ手が距離を詰めてくる。足音や金切り声がだんだんと近づいてくる。


「まずいわね……」


 先の見えない霧の中を当て所なく走る内、小豆は木の根に足を取られてその場に転んでしまった。


「小豆!?」

「大丈夫よ……」


 慌てて立ち上がろうとすると、右足に激痛が走った。転んだ拍子に痛めてしまったらしい。


「お、おい……」

「雅紀、箱を預けていいかしら? うまく逃げ切ったら叔父さんに引き渡して」


 小豆はスクールバッグを雅紀に押しつけると、金剛鈴を握りなおし、上体を起こした格好のまま背後を振り向いた。

 霧の向こうから、例の怪物が二体、三体と現れる。


「小豆……?」

「お願い、雅紀。ここでそれを取り返されたら、また、下らない呪いの被害者が出ることになるわ」


 怪物が追い詰めた獲物を品定めするようにじりじりと近づいてくる。

 あるいは小豆を警戒しているのかもしれない。


「おい、まさか……?」

「大丈夫、ちょっと神様を降ろすだけよ」


 自分に言い聞かせるように、小豆はゆっくりと言った。

 大丈夫、雅紀さえ逃がすことができればそれでいい。

 この問題は解決できる。

 そう思えば不思議と心が澄んでくる。


「神様を降ろすって、そんな簡単にできることなのかよ!?」

「馬鹿ね。あなたがいるじゃない。術式が発動したら、あなたが神様の名前を呼んで」

「呼ぶって言っても、オレはお前んとこの神様の名前なんか知らないぞ」

「当然。教えてないもの」

「おいっ!」

「でも大丈夫。あなたの直感で答えてちょうだい」


 小豆は返事を聞かず怪物に向き直ると、覚悟を決めて祭文を唱え始める。


「かけまくもかしこ高天原たかまがはらにおわします伊左那岐大神いざなぎのおおかみ筑紫ちくし日向ひむかたちばな小戸おどのあわぎはら御禊みそぎはらたまいしときせる祓戸はらえど大神おおかみたち、諸々《もろもろ》の禍事まがごとつみけがれらむをば、はらたまきよたまえとまおことこしせとかしこかしこみもまおす……」


 周囲の霧が小豆を中心に渦巻きだし、異変を感じたのか怪物たちの動きが止まる。

 雅紀ならきっと、何も知らなくとも正答を導いてくれる。

 根拠のない自信ではあるが、小豆はそう信じることにした。


「霧雨の地に眠れる谷津やつの女神に申し上げ候。醜怪しゅうかいなる者どもをちゅうし、郎党ろうどうを救わんがため、ここに我が身を依代よりしろと為して御身の来臨らいりんこいねがい候」


 ちり――――――ん。


 響くような材質でないはずなのに、その音は林の中に韻々《いんいん》と響いた。

 次の瞬間、小豆の中で何かが弾けた。

 意識が白い光の中に呑まれ、消えそうになる。


 ――やっぱり人間は、神を降ろすには弱すぎるわね。


 最後に考えたのはそんなことだった。それから、もう一つ。


 ――雅紀は怒るでしょうね。


 それから後のことを、小豆は良く覚えていない。

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