其の三
†3†
雅紀の家までは自転車で約四十分ほどだ。
路線バスはなし、電車はせいぜいが五分か十分ほどの短縮にしかならないので、結局自転車通学が一番いい。
その日の下校路は、いつもよりも薄暗かった。
まるで陽が陰ったように、視界全体が薄暗くなっている。
初夏の午後ということもあり、強烈な陽差しで目が眩んだのかもしれないが、それならば昨日だって目が眩んでもおかしくなかったはずだ。
なのに、昨日は薄暗かったという記憶はない。
そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、渡来川に架かる昭和橋に差し掛かった。
霧雨市と碧市の境になっている橋で、冬場などは赤城から吹き下ろす烈風のために進退窮まることもままあるらしいが、今は川面を吹き抜ける風が心地良い。
そんな橋の真ん中あたり、自転車同士がすれ違うのも難しい歩道の端に、一人の女が立っていた。
薄暗い世界に目映いばかりの白いワンピース。
腰まで伸びる長く艶やかな髪。
頭には広いつばのある帽子をかぶっている。
髪に隠されて顔は見えないが、頭の傾き具合から川を見下ろしているのが分かる。
妙な既視感を感じて、雅紀は自転車を止めた。
どこかで見たような、そんな気がする。
でもどこだ?
雅紀は懸命に記憶をまさぐった。
と、女がゆっくりとした動きで雅紀の方を振り向いた。
「あっ、すみません」
雅紀は女に謝り、自転車を押したまま女の脇を抜けようとした。
だが、女は歩道いっぱいに腕を広げている。
「あ、あの……」
喉元まで出掛かっていた言葉が、急に引っ込んでしまった。
女の体が突然、伸び上がったのだ。
大人の身長をはるかに超え、おおよそ三メートルほどの高さまで、一気に。
雅紀はそっと後ずさった。
じり。
学校指定の革靴がアスファルトを踏んで音を立てる。
女はゆっくりと足を前に踏み出した。
両手を横に広げたまま、ゆっくりと。
うつむいているので、髪と帽子で顔の大部分が隠れている。
わずかに見える口元だけがにたり、と歪んだ。
雅紀は今すぐにでも大声を上げて走り出したかった。
だが、実際には足がすくみ、少しずつしか動けない。
一度は広がりそうだった女との距離がまた、少しずつ縮まっていく。
「あっ」
橋の付け根のわずかな段差に足を取られ、雅紀は地面に転んでしまう。
女がゆっくりと、滑るように近づいてくる。
「く、来るな――」
雅紀は尻餅をついたまま、這いずるようにして後ずさるが、女の近付く速度の方が速い。
女が雅紀に向けて両手を伸ばしてくる。
「来るな……くるなっ」
大声を出したいが、のどが渇いてうまく言葉が出ない。
女の手が雅紀の肩にかかる。
強い力がかかり、爪が肩に食い込んでくる。
意味を為さない、無為な濁音の羅列が口からあふれ出す。
激痛で意識が飛びそうになった。
その時。
ちりん。
遠くから金属が打ち合うような音が聞こえた。
その音が聞こえた瞬間、肩に掛かっていた力が少しだけゆるんだ。
「かけまくも畏き高天原におわします伊左那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸のあわぎ原に御禊祓え給いし時に生り坐せる祓戸の大神たち、諸々《もろもろ》の禍事、罪けがれ有らむをば、祓え給い清め給えと白す事を聞こし食せと恐み恐みも白す……」
雅紀と同じくらいの、若い女の声だ。
ちょうど、雅紀の背後から聞こえた。
「……っていう堅苦しいの、あたしは好きじゃないから単刀直入に言うわ。さっさとおウチに帰りなさい、このストーカーババア!」
一言目とはうって変わった罵声。だが、こちらの方が効いたのか、雅紀の肩にかかっていた力が抜け、女が滑るように二、三メートル後退する。
「ほらほら、さっさとどっか行きなさい、この変態!」
ちりん。
再び、あの金属を打ち合う音。
ちりちりちりちりちりちり……。
今度はかなりのハイペースで打ち鳴らされている。
女は、その音に追い返されるように橋の真ん中近くまで戻ると、欄干を越えて下の川へと落ちていった。
雅紀は信じられない思いで目の前の光景を見つめていた。
まだ、体に力が入らず、立ち上がることができない。
「大丈夫? 今の、ずいぶん厄介そうなヤツだったけど」
そう言いながら雅紀の隣に立ったのは、自販機の前で会った女子生徒だった。
今まで陽が陰ったように薄暗かった世界が嘘のように明るくなっていく。
「君は、さっきの……?」
「ええ、魔女よ」
短く答える彼女の右手には、柄の付いた金属製の鐘が握られている。
仏教の法具、金剛鈴に似た形だ。
「で、立てるかしら?」
答える代わりに、雅紀は橋の欄干を支えにしてなんとか立ち上がった。
「君にははじめから分かってたのか?」
「ん、何が? 何が分かってたって?」
「だからその、あの化け物女に狙われてるってことを」
雅紀がたずねると、彼女は首を横に振った。
「ノー。あたしはただ、あなたが何かに目印を憑けられていて、それを目当てに校内の魑魅魍魎どもが近付いてきているのが見えただけよ」
「は?」
急な話に雅紀は間抜けな声が出てしまった。
「ちみ、もうりょう?」
「最近じゃ浮遊霊って言い方をするのかしら? 妖怪と呼ぶには特徴がないし、幽霊と呼ぶには意志が弱い、そんな、雑多な霊魂よ。学校のにぎわいに引かれて集まってくるの」
「そんなもの、実際に……」
「いるわけない、とは言えなくなったんじゃない?」
「それはそうだけど、でもやっぱりまだ信じられない」
「でも、あなたは実際に見ちゃったし、狙われてるのよ。たぶん、さっきのヤツに」
雅紀は押し黙ったまま渡来川の方を見た。
川はいつものように小さな音を立てて流れている。
橋から落ちたはずの女の姿はどこにも見えなかった。
「あいつは、一体なんなんだ?」
「えらく古い霊ね。一種の祟り神といってもいいかもしれない」
彼女は腕を組んで息を吐いた。
「それじゃ、あたしは行くわ。また縁があったら会いましょう」
「なあ、もう一つ教えてくれ」
「何よ?」
「その、君は一体なんなんだ?」
雅紀に問われて、彼女は一瞬だけ呆気にとられた顔になった。
だが、すぐににやり、と意地悪く笑う。
「あたしは土田小豆、魔女よ」
初夏の薫風が一陣、二人の間を吹き抜けていった。