其の六
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千佳と帰蝶は京をなんとかカギのかかる部屋に連れ込んで閉じこめたものの、それ以上のことができずに途方に暮れていた。
部屋の中からは相変わらずハイレタという単語の羅列が聞こえてくる。
「一応、近くの神社に人を呼びに行っていただきました。けども……」
「助かる、かな?」
「なんとも言えませんね」
帰蝶は首を振った。
「ヤマノケは都市伝説、誰かが戯れに作った偽りの怪談ではなかったんですか?」
「そんなこと、わたしだって分かりませんよー……」
千佳は廊下の壁に寄りかかってため息をつく。
「でも、あの子ならたぶん、わかると思います。だって、自分のことを魔女なんて名乗ってるくらいですから」
「あら、それはたのもしい……でも、どうして魔女なんですの?」
「さあ、わたしも詳しくきいたことはないので」
「意外と変な理由だったりするのかもしれませんね」
他愛ない会話だったが、多少なりとも平静を取り戻すことはできた。
唐突に、ポケットの中でスマートフォンが振動し、メッセージの受信を知らせた。千佳は壁から背中を離すと、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、チャットを起動する。
メッセージは雅紀からだった。
『ヤマノケについて知りたい。見たものを教えて』
「見たもの、かぁ。わたしが見たのは、確か緑で、一つ目で……」
千佳はさっき見たものを思い出しながらメッセージを打ち込んだ。
ばんっ!
突然、部屋の中から大きな音がした。
「なっ……なに!?」
「きっと、内側からドアに体当たりをしたんです!」
「でっ、でも、そのくらいじゃ破れたりしませんよね!?」
「ええ。でも、遠藤さんの体が……」
「そうか! は、早くしないと」
千佳は必死でメッセージを打ち込むが、焦っているせいか何度も打ち間違える。
「海北さん、魔女さんとの連絡はお願いいたします。わたくしはなんとかして遠藤さんを取り押さえてみます!」
帰蝶は言うや否やドアの鍵を開けて部屋に飛び込んだ。
部屋の中からは激しく争う音が聞こえてくる。
「せ、先輩!」
千佳はスマートフォンを持ったまま、部屋の中に飛び込んだ。
元は物置として使われていたのだろう、狭い部屋だ。
窓は嵌め殺しになっていて、出入り口はいま千佳が立っているドアだけ。
そのドアのすぐ目の前で帰蝶と京がもみ合っていた。
「ハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタ……」
京は相変わらず常軌を逸した笑顔で謎の言葉を繰り返している。
「海北さん、連絡は終わったんですの!?」
「そんな場合じゃないです、先輩!」
千佳は帰蝶に加勢して京を取り押さえにかかった。
しかし、京は普段からは想像もできないような力で抵抗する。
「みや、こ……っ! 正気に戻って!」
しばらくそうしていると、廊下の方から帰蝶を呼ぶ声が聞こえてきた。
「帰蝶夫人、神主さん呼んできましたー」
「こちらです! 早く!」
帰蝶が声を上げると、多くの足音がして、数人の二年生と、それから束帯姿の神職が駆け込んできた。大学生くらいに見える若い神職で、ともすれば特撮ヒーローにでも変身しそうな二枚目だ。しかも、右目には赤いカラーコンタクトを填めている。
千佳はこんな人で大丈夫なのだろうか、と思った。
京の様子を一目見るなり、神職の顔色が変わる。
「とりあえず、取り押さえよう。祓うのはその後だ」
神職も加わって、三人がかりで押さえつけ、二年生たちが見つけてきた椅子とロープで拘束すると、ようやく京は暴れるのをやめた。だが、表情に変化はなく、まだヤマノケが抜けていないのがわかった。
その後、神職の指示でその場に簡易な祭壇を築き、お祓いを試みることになった。千佳が不安に押しつぶされそうになりながら儀式を見守っていると、ポケットの中でスマートフォンが振動した。見れば、雅紀からのメッセージだ。
「例の魔女さんですか?」
「……みたいです」
「どうぞ、返信していらっしゃいな」
帰蝶に促されて、千佳は廊下に出る。
チャットを起動すると、メッセージは打ち込み途中で送信されてしまっていた。どうもポケットに入れる時に誤って送信ボタンを押してしまったらしい。それに対して、雅紀からは『今から行く』とだけ返事が来ていた。
「まあ、緊急事態だったし、仕方ないよね」
千佳は雅紀に今の状況を伝えようと返信ボタンを押した。
その時、部屋の中から帰蝶たちの悲鳴が聞こえた。
驚いた千佳が部屋を覗くと、椅子に拘束されたままの京の背後に、あの怪物……ヤマノケが立っていた。
帰蝶は怯える二年生たちを後ろにかばうようにして部屋の隅に立っていた。しかし、神職の方は何事も無いかのように祝詞を奏上している。
――辿。
ヤマノケの、半開きになった一つ目がぐり、と動く。
――叢。
そして、千佳を見つける。
――滅!
一つ目を大きく見開き、一歩を踏み出す。
千佳の両足から力が抜けた。
ヤマノケはそのひょろ長い手を千佳に向けて伸ばしてきた。
千佳はその場から離れようと手で床を這いずった。
しかし、ヤマノケの一歩は大きく、千佳はなんとか廊下に出たところで追いつかれてしまった。
ヤマノケの手が肩に触れた瞬間、あまりの冷たさに出掛かった悲鳴が喉の奥に引っ込む。
ヤマノケに触れられたところから冷たいものが無遠慮に体の中に流れ込んでくる。
その不快な感覚から逃れようと必死で身をよじるがヤマノケの手は離れない。
次第に、体の動きが鈍くなっていく。ヤマノケの手から流し込まれた、冷たい何かが千佳の体を侵しているのだ。
「か……っ海北さん!」
帰蝶がモップでヤマノケに殴りかかるのが見えた。
だが、体の侵食はかなり広がっており、特に顔はもはや、自分では動かせなくなっている。
「このっ! お放しなさい!」
帰蝶の声が遠くなっていく。
――あたし、このまま死ぬんかな? イヤだなー……。
千佳は遠のく意識でそんなことを考えていた。
恐怖や不快感は不思議と感じなかった。




