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縁の本棚  作者: 雪縁
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本日の一話 「熊の火」

安房直子コレクション5【恋人たちの冒険】より

   「熊の火」



 煙草の匂いは嫌いではない。むしろ好きだといえるかもしれない。

 今はすっかり禁煙してしまったが、昔、父親が吸っていたせいでもあるだろうし、家に出入りするお客さんたちが吸っていたからかもしれない。健康によくないということはわかっていても、私にとっては、たまらなく懐かしい匂いである。

 今は身近で煙草を吸う人はほとんどいないが、たまにそういう人と接するとき、その人のくゆらす煙草の煙に、このお話がふと思い出されるのである。


 主人公は小森さんという男性。仲間といっしょに山に来たが、彼が足をくじいたことで仲間から置いてきぼりをくってしまった。早く助けがこないものかと思っている矢先、煙草をくわえた大柄な男性が現れる。小森さんの父親を思い出させるその大柄な男性は、なんと一頭の熊だった。

 熊は小森さんに話してきかせるのだった。


 現実の生活に疲れ果てた熊と娘の親子は、火山から立ち上る火口の煙の国へ、熊の楽園を目指して入っていった。そこには理想どおりの楽園があり、何一つ不自由することなく熊の親子は暮らしている。が、そこから外界に出入りするためには、煙草を吸うこと。煙に包まれることで外界に出られるというのだった。


 父親の熊は娘の熊に連れ添ってくれる人をさがしていた。現実の生活にうんざりしていた小森さんは、熊に連れられ、煙草を吸って火口の煙の国へと入ってしまう。そこで小森さんは熊となり、娘の熊と結婚し、子どもも生まれ、平和な家庭をもったのである。


 のどかにあまやかに月日は流れた。やがて小森さんの心に少しずつ変化が訪れる。何一つ不自由のない生活だけれど、自分の心の一箇所に小さな穴があいて、そこから冷たい風が吹きすぎていくような……。

 世間の荒波にもまれて、ひと旗あげたい。そのためにはもう一度外に出たい。そんな人間としての気持ちを強くした小森さんは、父親の熊をだまして煙草を手に入れた。そしてもといたところの山へと戻ると、行方不明になって一週間、山で遭難した自分を捜すための捜索の真っ最中であった。


 もとの職場に復帰し、熊であったことが夢だったのか現実だったのかわからない小森さんの目の前に、妻である娘の熊がやって来る。どうやって来たのかたずねる小森さんに、娘の熊は答えるのだった。


「山を焼きながらきました。あんたにひと目あいたくてきました」

 そういいながら、うしろの山を指さしました。目をあげて、小森さんは、あっと声をあげました。

 熊の指さす山の、頂上からふもとまで、いいえ、小森さんの家の庭先まで、うねうねとひとすじの火の道ができていたのですから。まるで、赤いたいまつの行列のように。それとも、あざやかな火の川のように。


 そして、娘の熊は小森さんに煙草をわたし、帰ってきてほしいと訴えるのだった。


 娘が焼いて来たという赤い火の道。そこにはまんじゅしゃげの花がくさりのように連なって咲いていた。以来、小森さんは熊からもらった煙草を飲んでみようとしたけれど、もう二度とは火がつかなかった。熊たちと過ごした煙の世界は、小森さんにとって永遠に行くことのできない場所となってしまったのだった。


 熊の娘が焼いてきたという赤い火の道。目の前にくっきりとイメージできる。

 どんな思いを胸にあの道をやってきたのか、そしてもどっていったのか……?

 せつない感情に胸がしめつけられるのだ。


 そしてまた、熊たちとの理想の世界にとどまることのできなかった小森さんのとった行動も理解せざるをえない。熊となって一度は家庭を持ちながら、その幸せを放棄した身勝手な行動であるけれども……。

 ちょうど人間が、魚といっしょに海に住むことができないように。鳥と一緒に空に住むことができないように……。


 しんとした余韻が心に残る一作である。

 

 




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