本日の一冊 「子ども食堂 かみふうせん」
「子ども食堂 かみふうせん」【国土社】
斎藤 飛鳥・作
幼いころの自分にとって、いちばん好きな時間は家族そろっての夕食のひとときだった。
朝はそれぞれバラバラでも、夕食の時間になると、離れから祖父が、勉強部屋から姉が、そして父も仕事から帰って、茶の間にそろう。台所では、祖母と母が腕をふるい、お膳をふいたり、お箸を並べたりと幼い私がちょこまかとお手伝いをする。やがて、祖父と父が晩酌をはじめ、そのうち、飯台の上にご飯やおかずのお皿が出そろうと、にぎやかに夕食が始まる。いい匂いに誘われてか、飼い猫もやってきて、姉と私の間にちょこんとすわり、時々おこぼれをもらっている。
家族全員で楽しむテレビ番組があれば、チャンネルを合わせ、話したいことがあれば、だれかれとなく口火を切る。祖父母や両親が話す内容は時としてわからないこともあったが、それでも同じ釜の飯を食うという行為は、家族が一体であるという絶大な安心感を、常に私に与えてくれた。
夕食時間の早い遅いはあったとしても、当時の田舎は、ほとんどの家が、祖父母と同居の大家族。万一、両親の帰りが遅くなっても、祖父母がちゃんと食事を食べさせてくれていた。
それから数十年後。私が母親となり、息子たちを育てるころには、家族で夕食を囲めない子どもたちが結構いることを知った。ちゃんと食事のしたくをしてもらっている子どもはよい方で、夜も、その翌朝も食事抜きという子どもも少なからずいた。
「子ども食堂」とは、全国に増えつつある、そういう子どもたちのために作られた食堂。もちろん大人と同伴でもかまわない。孤食をさけ、きちんと食に向かい合うことが目的だ。
本書では、八百屋のあーさんがたちあげた「子ども食堂かみふうせん」に通う四人の小学生が登場する。
借金返済のために自分を捨てた両親を待ちつつ、水道やガスも止められ、臭い、ゾンビだといじめられながら、かみふうせんに居場所を求める麻耶。
そんな麻耶を執拗にいじめるクラスメイトの闘志は、子役スターの妹ばかりが可愛がられ、親の愛情に飢えているからだとあーさんに気づかされる。
一方、そんな闘志が好きで好きで、何とか繋がる手段を持ちたいと、子ども食堂を利用しはじめる悠乃。
ひとりぼっちの食事がいやで、かみふうせんに興味をもちながらも、なかなか勇気がわかない一平。
子どもながらに、それぞれがさまざまな思いを抱いて、かみふうせんを訪れ、あーさんの愛情に包まれながら自分にじっくりと向かい合う。
「子ども食堂」自体はすばらしい発想であり、助けれられる家族は多いと思う。だが、何をさておいても、子どもにご飯を作る。一緒に食べる。成長するまでのわずかな時間、生きていくには最も大事なことなのに、どうしてそれを放棄してしまうのだろうか。
読みながらも、なぜか釈然としない思いが残ってしまうのだ。




