ティア・ドロップ
天から、雨粒がぽつり、ぽつりと落ちた。
街角には、傘が溢れている。赤色、青色、黄色、茶色、黒。
色とりどりの色彩がある筈なのに、秋にひたされたそれらは、まるで総出でくすみにかかっているように、暗く、落ち込んでいる。
子供の頃の大人のイメージってこんなんだったな、と思いながらいると、先生が傘をくれた。
「先生は、差さないんですか?」
「君に上げたからね」
先生はこちらをちらとも見ずに言った。
車の群れたちが、生き物のように、けれど静かに通り過ぎてゆく。エンジンの音も、街ゆく人たちの靴音もする筈なのに、なぜか生のけはいが感じられない。ただ、風景画のように平面に、目に映る。
私は押し黙った。何か、話さなければならないと思うのに、言葉がついて出なかった。雨粒が、ぽつりと頬を叩いた。傘の位置が悪かったらしい。
背の低い私が、先生の方を仰ぐと、先生は、笑っていた。
「何が可笑しいんですか」
「いや」
バスは、まだ来ない。
待っているようで、待ってはいないのだ。
「涙みたいだね」
私は答えなかった。ティア・ドロップ。雨のかたちなんて、どうやって、誰が見つけたのだろう。先生は、肌寒い秋の都会で、暖かそうな黒いカーディガンを身にまとって、行儀よく手を前で組んで、ただ、待っている。
私は正面を向いた。違う便のバスが、音を立てて去ってゆく。それなのに、その排気音すら、透明で、私の耳のおくまでは到達しない。ゆっくりと青と白の車体が過ぎてゆく。
窓を見やると、見知らぬ女の人が見下ろしていた。過ぎてゆく窓たちの一片に先生と私の姿が映る。どう、見えるのだろうか。他人からは。
ちらりと、先生の方を見ると、あたたかそうな手が重ねられている。
秋の、体温を少しずつ奪ってゆくその温度に、そっと自分の人差し指が動く。
「あ、来ましたよ」
「あ」
赤い車体に、白いバスがオレンジ色の電光掲示板を光らせながら、こちらにやってくる。それは現実に自分を引き戻す灯りだった。まぶしくて、一ミリも違うことも許さないひかり。それは街のどのひかりよりも眩しくて、そうして、「正しかった」
何も感じてはいないはずの、瞼がふるえた。熱い、一滴がきちんとしたティア・ドロップの形も成さずに下瞼の上で、ぐずと崩れた。
乱暴に、拭う。
「どうしました?」
「いえ」
不意に、懐かしいかおりが漂った、なんの、匂いだっけ。
「夏の匂いがしました」
と言ったら、先生は笑っていた。
蝉の鳴き声もしない、入道雲もないのに、どう夏の匂いがしたのか、先生は深く追求しなかった。そういう、ところも、好きだ。
「ほら、バスが来ましたよ」
騒がしい音を立てて乱暴に扉が開く。先生がそっと背中に触れた。また、溢れそうになる、涙。触れたてのひらは温かかった。優しくて、温かい、先生のてのひら。
その指先が、そっと、自分の背中から外れてゆく。そうしたはずみで、足が動く。私は、先生の顔が見たくて、いちばん、窓際に、バス停の窓際に腰掛ける。
先生の顔が見えた。
とたんに世界が彩度を上げた。赤は、赤。青は青。揺れるように色彩が速度を上げて街を染め上げてゆく。
ショーウィンドウの灯りが、生のあかりのように先生の横顔を照らしている。
彼は、照れくさそうに、すこし、笑った。
私も、笑った。
瞼から溢れそうな涙は、とまれとまれというのに、ほろり、こぼれた。
それを先生に見られたかどうかは、わからない。
バスは、闇を突き抜けるひとすじの光のように、旅立つ。
気怠い生き物の吐息のように、五月蝿い排気音を吐き出しながら、そうして、どこかへ、私を運んでゆく。