第8話 四の目で初恋に狂う王子様に偽りの愛を
(15日追記)
色々なご指摘をいただきますので、説明をさせていただきますと、クローネが呼んでいる「公爵令嬢様」というのは意図的にさせています。
読みづらいと感じられたのでしたら、申し訳ありません。
固まったまま動かないレクスィとユリアに、クローネは首を傾げた。
「そろそろお話をさせていただいてもよろしいですか?」
パンと手を叩くと我に返ったユリアが、一歩後ずさりレクスィに縋りついた。
「レ、レクスィ様! どうして……!」
私がいるのかとレクスィに問いたかっただろう言葉を最後までユリアは紡ぐことができなかった。
レクスィはユリアの声など聞こえていないのか、ユリアの手を振り払い、一直線にクローネの元へ行き、あらん限りの力でクローネを抱きしめのだ。
「クローネ! やっと来てくれたのだな! ずっとずっと待っていたんだ!」
体のあちこちが軋む音がする。
クローネは痛みに唸るでもなく、顔を引き攣らせるわけでもなく、溜め息を一つ落とす。
「レクスィ殿下、痛いので離れてはいただけませんか? それに婚約者でも、ましてや恋仲でもない相手にこういった行動はいかがなものでしょうか?」
「問題ない! クローネはいずれ私の側妃になるのだから!」
何度も何度も繰り返してきた応酬に否定を返したところで、理解はしてはくれないだろう。
それを何年も前から身に沁みてわかっているクローネは、レクスィが落ち着くまで待つしかないかと諦める。
それに問い詰めたいこともあった。
「レクスィ殿下、私は城に立て籠もれと手紙に書きましたが、町を占拠しろとは書いておりません。町の占拠はヴェステン公爵のお考えですか?」
「そうだ! そのほうがいいとヴェステン公爵が言ったのだ!」
クローネが送った手紙に浮かれすぎていて、そんなバカな判断をしたのだろうが、普段だったら、もう少しまともに考えることもしただろうに。
まあ、それでも婚約破棄の時から正常な判断ができる状態かどうかは怪しいものだったが。
「これでやっと誰にも邪魔されずにクローネを私のものにできるのだな!」
「レクスィ殿下……私が手紙で頼みましたことは?」
「もちろんすべてちゃんと指示通りにしたぞ! クローネの頼みだからな!」
「そうですか。ありがとうございました。レクスィ殿下」
「レクスィでいいといつも言っているだろう」
「私は臣下ですから」
「もう臣下ではない。私の側妃に、」
「レクスィ様! なにを、なにをやっているんですか!?」
やっとユリアが正気を取り戻して、声を上げてくれたことにクローネは内心で助かったと息をつく。
このままレクスィと話していたら、口付けまでされかねない。
「ああ、ユリア、いたのか。クローネが言うからここまで連れてきたんだが、どうして二人の再会にユリアが必要だったんだ?」
つい今しがたまで一緒に行動を共にしていた相手に酷い物言いだった。
ユリアはレクスィがなにを言っているのか、わからないという顔をする。
自分を慈しんでくれた瞳は、ただそこにあるものを見ているだけという印象しか受けない。
膝からがくがくと震え出すユリアを一先ず放っておく。
まだレクスィに問い詰めたいことがクローネにはあったのだ。
「必要だったからです。この場にはユリア公爵令嬢様が。レクスィ殿下、どうしてフェアシュタ公爵令嬢様との婚約を破棄しようと思われたのですか」
「フェアシュタがいてはクローネは私の側妃になってはくれないだろう? フェアシュタは賢い。だから、父上に進言してもクローネを側妃にすることを認めてはくれないだろうと思った。だったら、賢くない女性を正妃とすれば父上も認めてくださるに違いないと思ったのだが」
「レ、レクスィ様……」
「そんなことをしても私はレクスィ殿下の側妃にはなれないと、あれだけ手紙で御忠告申し上げました。私はてっきり私のことなどはもう諦めて、ユリア公爵令嬢様をお好きになったのかと思っておりました。それでも、正妃はフェアシュタ公爵令嬢様以外いないとも、きちんとお伝えしていたはずです。国王陛下も王妃様も、そのお考えから揺らぐことはありえなかったのですから」
「我慢ができなかったんだ! クローネは日々美しくなっていく。私が出会った時よりも更に! いつか誰かに奪われてしまうのではないかと気が気ではなかったんだ! 気が狂いそうだった!」
「わたしを、愛していると……」
「レクスィ殿下のお気持ちは大変嬉しく、身に余るものです。ですが、私は我が君に忠誠を誓った者。そして平民です。側妃になどなれるはずがございません」
「関係ない! 父上も母上もクローネを評価している!」
「それとこれとはまったくの別問題です。どうしてわかってくださらないのですか?」
「クローネこそ、どうして私の気持ちをわかってくれない! 私が愛しているのはクローネただ一人だ!」
「わかっております。わかっているからこそ私の苦言としてお聞きください。私は私の気持ちをわかってくださらないレクスィ殿下に困っておりました。どれだけ言葉を重ねても、歳月を重ねても、私のことを諦めてはくださらなかった。ですから、今日ここに来たのです。レクスィ殿下のお気持ちに答えるために」
「クローネ! やっと言ってくれたな! ああ、クローネ!」
最初の抱擁よりも、もっと強く抱きしめられて、さすがに体が悲鳴を上げているが、勝手に振り払うわけにもいかない。
「レクスィ様! わたしを愛していると仰ってくれたのは、嘘なのですか!?」
ユリアの悲痛な声で多少緩められた腕からさっと逃げ出すと、レクスィは名残惜しそうな顔をし、邪魔をしたユリアを睨みつけた。
そんなレクスィの眼差しなど、今まで一度もうけたことがなかったユリアは竦み上がる。
あんなにも「愛している」と囁いてくれた優しい瞳の色が、どこにも見当たらない。
喉からヒリヒリと這い上がってくる痛みが、ユリアを麻痺させようとしていた。
「すべて嘘だったというのですか!? 違うと、冗談だと仰ってください!」
このレクスィを見ても尚、縋りつこうとするユリアは哀れなのだろう。
けれど、フェアシュタなら毅然と前を向いてレクスィを見限っていた。
どうしてこんなにも姉妹で違うのか。
ヴェステン公爵と夫人のせいなのだろうが、それにしてもあまりにも公爵家令嬢としてなっていない。
甘い夢がいつまでもいつまでも続くと信じて疑わなかった結果がこれだ。
「愛しているよ。クローネの次に。クローネを側妃とするための道具としてユリアを愛している」
絶望に染まったユリアの目に涙がたまってゆく。
崩れ落ちたユリアを支えてくれる人は、この場には誰もいない。
(ああ、嬉しいな。ユリア公爵令嬢様のこんな顔が見れて)
フェアシュタをずっとずっと苦しめてきたユリアのこんな顔が見たくて堪らなかった。
人に興味など欠片も持ってはいないけれど、ヴォールとフェアシュタだけは違う。
クローネにとっては、二人は悪であっても守りたい存在だ。
二人が立派な人間だったからこそ、クローネも真っ当な姿を演じてきたにすぎない。
尊敬されて羨望の視線を集める、二人が望む「クローネ」で在り続けることは苦痛でもなんでもないのだ。
その守りたい存在の中に、はたしてパラストは加わることができるのかと考える時が最近よくある。
考えるだけでもクローネにとっては珍しいことだから、きっといずれはそうなるのだろう。
こんな状況下で別のことを考えていたクローネは、ユリアにたいして興味もないという風に見えたのだろう。
ユリアは腰から短剣を取り出して、それを己の喉元に突きつけた。
「レクスィ様がわたしを愛してくださらないのなら、わたしは死にます!」
クローネを見据えながら、弱弱しくも言ってのける。
別に恋敵でもなんでもないのだから、そんな目で見られる覚えはクローネにはなに一つないのだけれど。
それでレクスィが靡くと思っている頭が残念でしょうがない。
そんなもので靡くのなら、今までクローネが数年間も苦労してきたことなど無意味だからだ。
「では死ねばいいだろう。私はクローネさえいればいい」
案の定言い捨てたレクスィに、ユリアは目を見開いてぼろぼろと涙を流した。
「どうして……! わたしを愛していると仰ったのに……! だから、だからわたしは……!」
「クローネ! ここで二人で住もう! 誰にも邪魔されることなく二人きりで!」
泣いているユリアを一瞥もせずに、またクローネを抱きしめたレクスィに「そうですね」とクローネは返事を返す。
(なにを言っても、なにをしても、レクスィ殿下、貴方は変わらなかった)
「なあ、クローネ、今夜は……がっ!?」
衝撃がレクスィを通して、抱き締められているクローネにも伝わってきた。
ずるずると落ちてゆく体を支えながら、ユリアを見る。
涙を零しながら血のついた手が宙に浮いたまま、ユリアはレクスィを見ていた。
口から血を吐いたレクスィの背中には、先ほどまでユリアが手にしていた短剣が刺さっている。
ぺたりと座り込んだユリアは虚空を見つめたまま。
もう正気には戻らないだろう。
「ク、クロー、ネ」
手を伸ばしてきたレクスィの頬を、そっとクローネは両手で包んだ。
「貴方に一番逃げ道を用意し続けてきたのですよ」
その声が聞こえたのかは、もうわからなかった。
初めて出会ったのは九歳の時。
クリーレン王国との戦争が終わり、父上が戦場から御帰還されて数日たった頃のことだった。
勉強の息抜きにヴォールと遊ぶ約束をしていたのに、ヴォールが現れない。
これでは自由な時間が無くなってしまうとヴォールを探しに出た。
ヴォールの部屋に行ってもいない。
宮女に聞くと、何故だか地下牢へ向かう父上の後を追って行ったのだとか。
ヴォールが四歳になるかならないかの時にクリーレンとの戦争は始まった。
独裁政権を貫いていたクリーレン王国の民達が武器を持ち、贅沢ばかりで政ができない皇帝を、その座から引き摺り下ろしてから半年の後、浮浪者や盗賊になった村人達が隣国であるブリューテに蔓延るようになったことが戦争のきっかけだった。
革命と称しても混乱のさなか、纏めるものは王族ではなく一市民だったものばかり。
貴族はほとんどが根絶やしにされていたために、政治などできる人間がいなかったのだ。
物心ついてから、あまり会う機会のなかった父上の姿を見て、思わずヴォールは追ってしまったのかもしれないとレクスィも地下牢へと急いだ。
そこで出会ったのだ。
必死に泣き叫ぶヴォールと剣を携えた父上。
ヴォールの小さな背に庇われた少女はレクスィと同い年ぐらいに見えた。
栗色の長くて綺麗な髪が、こちらに振り向いたとき、どくりと胸が鳴ったのを覚えている。
生気のない瞳から零れる涙は美しいほどで。
その瞬間に魅入られたのだ。
クローネという一人の少女に。
ほどなくしてヴォールの侍従を務めることになったと挨拶にきた少女は、あの涙が嘘のように晴れやかに笑っていた。
「クローネ・オルクスと申します。よろしくお願いいたします。レクスィ殿下」
クローネはなにもかもが完璧な少女だった。
一度言われたことは忘れず、父上や母上の頼まれごとを正確にこなす。
十歳の可憐な少女は周りの宮女や騎士達から可愛がられたが、それに甘えずにヴォールの侍従としての役割を果たそうとするクローネにレクシィが惹かれてゆくのは必然だった。
婚約者であるフェアシュタは申し分のない令嬢だ。
まだ七歳なのに王妃になる教育を五歳の婚約した日から始めているフェアシュタは、厳しい指導にも泣き言一つ言わずにこなしていると評判で、色々な折の行事の際に出会うと、レクスィにたいする好意を隠そうとはしない。
可愛いと素直に思う。
けれど、フェアシュタは妹のような存在で、異性として意識することが、どうしてもできなかった。
フェアシュタよりもレクスィの心を占めたのは、クローネという少女。
いけないとはわかっていても想いだけが募って、ある日、父上と母上、クローネの三人だけがいる所に突撃して告白したのだ。
「いつか側妃になってください」と。
父上と母上はクローネを可愛がっている。
だから、きっと大丈夫だと思っていたのに返ってきた父上の答えは「否」
母上も同じだった。
そして、クローネは困ったように笑っていて。
「私は臣下です。レクスィ殿下の側妃になることはできないのです」
諦められずに父上がお一人の時にお願いしたけれど、渋い顔をした父上は首を横に振るだけ。
「クローネはダメだ。あれはお前では手に負えない。フェアシュタ嬢がいるだろう? そちらに目を向けるべきだ」
どうしていけないのか。ダメなのか。
何度も何度も尋ねても教えてくれることはなかった。
思いだけが心に蓄積されて、圧迫されそうなほど苦しくて。
浅はかな行動に走ったのが十二歳の冬。
クローネの寝所に忍び込んで、ことを成そうとした。
あっさりとクローネに反撃を喰らって、壁に叩きつけられたが。
相手が自分だとわかると驚愕して、頭を抱えていた。
どれだけクローネが好きかを伝えても、クローネは受け入れてはくれない。
欲しい人はヴォールの傍にいて、こちらに振り向きもしてくれない。
次第にヴォールを妬ましく感じるようになった頃、クローネが一向に諦めないレクシィに妥協点として提示してきたのは手紙のやり取りだった。
二人だけで決めた場所に手紙を置き合う。
夜にクローネの寝所に押し入ったことはクローネは父上や母上には言わなかった。
これをのんでくれなければ、事実を喋る他ないと言われれば頷くしかできることはない。
手紙でやり取りはしても、返事は催促しないでほしい旨と誰にも秘密でという二つの条件をのんで始まった手紙のやり取り。
きっと、いつかはクローネに伝わってくれるだろうと信じていた。
これだけクローネを思っている気持ちは、いつかきっと。
なのに数年が経っても、クローネは変わらずレクスィの思いを受けとってはくれなかった。
五通に一回の割合で届く手紙には簡素な文字しか並んでいない。
もどかしい気持ちを抱えても、条件をうけいれてしまっている以上、どうすることもできない。
クローネは歳月を経るごとに美しく成長していった。
いつか誰かのものになってしまうんじゃないか。
そんな不安がレクスィを蝕んでいく。
そんな中でフェアシュタから紹介されたユリアを見て、すぐに自分に好意を寄せてくれたことに気付いた。
最初は気にもしていなかったが、ふと思いつく。
この賢くないユリアを正妃にしたら、クローネを自分の側妃として父上は認めてくれはしないだろうかと。
そんな考えを手紙にしたためたら、すぐにクローネから返事が返ってきて驚いた。
手紙には「なにを冗談を仰っているのですか」「フェアシュタ公爵令嬢様以外で王妃になれる方などおりません」と書かれてあった。
そんなことはわかっていた。
でも、そうでもしなければクローネを手にすることはできない。
それ以降の手紙は送ったら、すぐに返事が届くようになった。
嬉しかった。
ユリアのことがあったお陰で、やっと自分に気持ちを向けてくれたのだと思っていたのに。
あの婚約破棄の一件で謹慎を言い渡され、王太子からも廃嫡された。
王太子でなければ側妃を娶ることは難しい。
貴族の令嬢なら誰も文句は言わないだろうが、クローネは平民でありながら、父上と母上のお気に入りだ。
王太子でなければ側妃として迎えたいと言っても、聞き入れてはもらえないだろう。
必要なんだ。王太子の地位が。
けれど、父上はヴェステン公爵家に私を婿として放り込んだ。
違う! 私が欲しいのはユリアじゃない!
クローネだけだ!
鬱々として過ごす日々の中、クローネが王宮で親しくなっている男性がいるという噂が耳に入ってきた。
嘘だ。嘘だ。嘘だ!
クローネが手に入るのなら、もうなにもいらない。
王子としての地位も権力もなにもかも。
だから、クローネ、私の手をどうかとって。
クローネの綺麗な瞳が真っ直ぐにレクスィを見つめてくる。
触れてくれる両手の温かさに頬ずりしたくなった。
「貴方に一番逃げ道を用意し続けてきたのですよ」
意味がわからなくてクローネに尋ねようとしたが、もう声が出せなかった。
クローネ、愛している。愛しているよ。
ただの初恋だとクローネは当初レクスィの行為を有難く、けれど申し訳なく受けとめていた。
その歯車が狂い始めたのは、いつだったか。
襲われた夜はなんとか思い止まらせて帰したものの、諦める素振りをまったく見せないレクスィに手紙という妥協点を提示したのは、いつか目が覚めると思ってのことだった。
フェアシュタはとても賢く綺麗で、王妃として相応しい令嬢だ。そのことに王太子のレクスィが気付かないとは思えない。
クローネ自身、まだ幼かったと言わざるおえない。
ヴォールの慕う兄であるレクスィを傷つけたくない気持ちが、どこかにあったのだ。
手紙でのやり取りを続けて数年、気付くと思っていた浅はかな迷いが間違っていたと気付いた時には、すでにレクスィの手紙の内容はおかしなものになっていた。
『私の想いをうけ入れてくれないのはフェアシュタがいるからなのか?』
『大丈夫だ。クローネは側妃に相応しい』
『手紙をどうしてあんまりくれないんだ! もしかして父上がなにか仰ったのか!? クローネほど私に似合う女性はいないというのに』
『我が君とクローネに呼んでもらえるヴォールに嫉妬をしてしまうよ。クローネは私のものなのに』
『今日はヴォールと一緒に遠出をしていたようだが、どこに行っていたんだ。二人きりでなんて私を嫉妬させようとしているのか? いけない人だ、君は』
内容がどんどんエスカレートする。
逐一クローネの動向を探るためにヴォールの居場所を毎日のように誰かに聞くレクスィの姿は弟思いの兄に皆の目には映っていたのだろうが、実際は違う。
クローネを想う気持ちを完璧な演技の下に隠せるのなら、どうして諦めてはくれないのか。
そう思って綴った手紙はレクスィの感情を逆撫でするだけだった。
『クローネは私の側妃になる女性だ! どうしてそんなことを言うんだ! 誰かに言わされているのか!?』
普通の令嬢なら怯え怖がって逃げ出していただろう。
レクスィの狂気にクローネが平然としていられたのは、クローネ故だったからかもしれない。
本当はレクスィに欠片も関心がなかった。
だから、なにを書かれようと、なにを思われようと平気だったのだ。
でも、それも今日ですべて終わり。
もう動かないレクスィの体をゆっくりと降ろすと、室内の空気が上昇していることに気付く。
あの老人はきちんと紙を騎士に手渡してくれたようだ。
そう思った瞬間、部屋の周りを取り囲むように炎が包む。
色々と仕掛けが施されたこの城は、南の白亜の塔と東の朱天の塔に同時に火を放つと、玉座の間がこうして燃え上がる仕組みになっている。
老人に手渡した紙には「二つの塔に同時に火のついた矢を投げ込んでください」と書いていた。
クローネは隠し通路に続いている絵があった空間に飛び込む。
そうしてユリアを見れば、呆然とただただ焦点の合わない瞳で天井を見上げている。
レクスィの動かなくなった体と一緒に、心も動かなくなってしまったようだ。
「ユリア公爵令嬢様」
呼びかけても返事もない。
聞こえてはいないのだろう。
聞こえていたら、手を掴んで逃がすぐらいの選択肢は与えるつもりだったが。
(もう無理か)
高い炎が上がり、部屋を埋め尽くす。
二人の姿はもうクローネの所からは見えなかった。
ここもあまり持たないだろうと来た道を戻ろうとして、クリーレン王国最後の皇帝の肖像画が目に入る。
クローネはそれを抱え上げると、炎に包まれた玉座に投げ入れた。
一瞬にして灰になっていく絵にうっすらと笑みを零す。
(お好きな赤に囲まれて幸せでしょう? お父様)
胸元の赤いダイスも笑っているかのように揺れる。
そっとダイスに手を当てて、クローネはその炎を目に焼きつけながら、その場を離れた。