春
桜が舞い穏やかな空気に包まれ、新入生らしき学生がまだ見知ったばかりの友人といつもの2倍近くのテンションで話をしている。
それを横目に私は狭い小路を歩いた。
私は春が嫌いだ。
他の季節は勝るとも劣らないほど愛しているが、春はただただ嫌気が差すだけだ。杉のようなその大きさしか取り得のない植物は花粉を巻き散らかし私を昼夜問わず苦しめる。また、先ほど見た新入生のように、「まだお互いを知らない、嫌われたくない、ノリが悪いと思われたくない…!」という思考からくるハイテンションも虫唾が走る。
斯く言う私自身もそうしたことがあったのかと聞かれれば、もちろんあった。
私は隠すことも、逃げることもしない。
「お前にもその時期があったなら少しはわかるじゃないか!」と人差し指を眼前に突き付ける者もいるかもしれない。ごもっともである。
しかし、だからこそ嫌なのだ。あの頃の自分を思い返すだけでも、顔面から火を噴き放ち目の前の雑誌類を燃やしてしまうのではないかと思うくらい真っ赤になり、かといえば体中の体液がすっからかんになったように蒼白する。
私が春を嫌いなのはそれだけではない。春というモノに対して、良いイメージが一切ないからだ。これ程までに良いイメージがないことに称賛を送りたくなるほどでもある。
夏は家族や友人と海に出かけたり、打ちあがる花火を鑑賞したりと、逆に言えば良い思い出しかない。秋も好きだ。のんびりとした空気の下、色鮮やかな紅葉を見ながらする読書は格別である。食べ物もうまい。
冬もまた良しである。寒いのは少し苦手だが、そんなこと忘れてしまうくらい好きだ。何といっても冬の女性の格好はたまらない。コートを身に着け、マフラーをぐるぐるに巻いた女性ほどこの世に神秘的で高貴なものはないだろう。いや、ない。私ははっきりと断言できる。
しかし、春はどうだ。他の3つの季節が切磋琢磨し、溢れる向上心の元で成長をしているにも関わらず、春だけはその地位に甘んじている。
一度こうしたことを友人に熱く語ったことがあるが、その友人は「桜の景色は素晴らしいじゃないか」と一言放った。私はその言葉に鼻で笑った。
たしかに桜が素晴らしいことは認めよう。私もこの日本で生まれ育ったからには、それなりの日本人的な美的センスを持ち合わせているつもりだ。
しかしだ。桜の樹には毛虫が大量にいることを諸君らは忘れてはいけない。
私がまだ可愛らしく愛嬌があり、どこへ行っても頭を撫でられていた小学二年生の頃である。可愛らしい顔、その愛くるしい身体、ひらひらと宙を舞う蝶のような手を存分に使い、小学校のアスレチックで溢れんばかりの湧き出るエネルギーを発散していた。当時の私が笑顔ではしゃぐ姿をとらえた写真がピューリツァー賞の候補に上がったとかなんとか。
そんな天使のような私の右手に毛虫がよじ登っていたのだ。なんということであろうか!私の雪の様にふわふわとした真っ白な顔がさらに白味を増した。
人間いざ恐怖に直面すると何もすることが出来ない。私は自分の右手で踊り狂う毛むくじゃらの悪魔をただ傍観することしかできなかった。
どれぐらい時がたったのだろうか。
私の中では何百年と言う時間を経たような気がするが、おそらく客観的観測では1秒ほどであろう。私は先ほどまでとは裏腹に、その右手に引っ付いた毛むくじゃらの悪魔を無我夢中で振るい落とすことだけに全身のありとあらゆる神経、筋肉、器官を使った。
きっと私が初めて春を嫌いになった瞬間であった。
それからというもの私は春を敬遠し続け今日に至るのである。