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「……んー」
私の頭上で盛大な溜め息が零された。
溜め息を零したのは他でもない、伯爵様だ。しまった、怒らせてしまったんだ。今度こそ殺される。
「だがまぁ……女子……、あと焼き菓子も欲しいといえば欲しいしな……」
そーっと伯爵様の様子を伺えば、ううんと呻りながら何事かを呟いている。今すぐ殺すわけではないのか……命拾いした……。
「この『焼き菓子』というのはすぐに作れるものなのか?」
「へ? え、あ、はい、簡単に……」
簡単に作れるものを出そうとしてるなんて言っていいのか!? そう思って不安になったが、一度出してしまった言葉を飲み込む事なんて出来ない。
私はいつでも逃げ出せるように、ゆっくりとこっそりと一歩だけ右足を引いておく。
「今からでも?」
「あ、はい」
「そうか……それなら、今から君の家に行っても構わないだろうか?」
「え!?」
「君のご両親に相談したい。日を改めた方がいいのなら、」
「あ、あ、大丈夫だと思います! お願いします……」
私は精一杯全力で頭を下げた。
どうやら逃げる必要はないらしい。助かった。二度目の命拾いをした。
伯爵様を家に連れて行くと、お母様は一瞬ぎょっとしたような表情を見せたものの、落ち着いた様子で伯爵様を迎え入れていた。
お母様は伯爵様を怖がってはいけないと言っていただけあって、お母様自身もあまり怖がっていないようだ。
お父様はと言えば、恐ろしい伯爵様だと言っていたし、きっと今の状況を見ると驚いて腰痛を悪化させてしまうだろう。
そっとしておこう。
あまり広くもない居間に伯爵様をお通しして、お茶を出したところで伯爵様がテーブルの上に私が書いた申請書を出しながら本題を切り出した。
「まあ、アルマが屋台の申請書を……」
伯爵様に今回の件の一部始終を聞いたお母様は眼を丸くしながら私を見る。
おそらく私がこんな行動に出ていたなんて思ってもみなかったのだろう。
「ええ。あ、君は売りたいという菓子を作ってみてくれないだろうか?」
お母様に対して短い返事をした伯爵様は、くるりとこちらを向いてそう言った。
私は勢い良く頷いて、その場から逃げるようにキッチンへと駆け込んだ。
ふう、と小さく息をついていると、居間のほうから伯爵様とお母様の声がする。
ここからでは何の話をしているのか全く聞こえないのだが、声色は穏やかそうなので今のところお母様が叱責を受けているわけではないようだ。良かった。
私が作るお菓子はさくさくの焼き菓子で、口に入れるとほろほろと解けていく不思議な食感のもの。
母の故郷で食べられていたものらしいのだが、これが簡単に作れてとても美味しい。
どの家庭にもあるような材料を混ぜて、母の形見である天使の形の型抜きで形を整えて焼けばすぐに出来上がる。
材料費も時間も掛からない魔法のお菓子なのだ。なんちゃって。
出来上がった天使の焼き菓子をお皿に乗せて、私は伯爵様とお母様の居るテーブルへと足を進めた。
「ええ。そうしてくださるとこちらもありがたいですね。今屋台街で働いている者はおっさんばかりで多少むさ苦しいので」
という伯爵様の声がする。
「あらあら、そうなのですか? 女性はいらっしゃらないのでしょうか?」
こっちはお母様の声だ。近所のおば様方と会話している時のような穏やかな口調に、私は静かに胸を撫で下ろす。私のせいでお母様が叱責されてしまったら、本末転倒だから。
「居ることは居ますが、若い女性はほぼ居ません」
屋台街で働く若い女性が居ないのは多分、皆申請書が提出出来ないからだと思う。怖くて。伯爵様が。
……だけど、だけど、伯爵様は怖いだけの人ではないような気がしてきた。
以前の領主様だったら、きっとお母様の事をもっと見下していただろう。私の事なんて見下すどころか視界にも入れてくれなかったような気がする。
しかし伯爵様はそんなことしなかった。私の話を聞いてくれたし、お母様と話す時も威張ったりしていない。
ただ、目元が怖い。目付きが悪いのだろうか……
「あの、焼きあがりました」
「あぁ……、」
私が持ってきた天使の焼き菓子を見た伯爵様が、私の見間違いでなければ、一瞬とても楽しそうに笑った。
必死で堪えたようで、本当に一瞬だけだったけれど。
「伯爵様……?」
「いや、なんでもない。天使か、見た目は合格だな。食べても?」
「どうぞ! あ、あのでもまだ熱い、」
ので、気を付けてください、と言うつもりだったのだが、伯爵様は何の躊躇いもなく食べてしまった。
伯爵様は熱さに強いらしい。男らしい。アーくんならきっとひぃひぃ言いながら口の中を火傷していたことだろう。……アーくんってば可愛い。
私の焼いた天使の焼き菓子をぱくりと口に入れた伯爵様は、静かに咀嚼して、大きく頷いた。
それからは怒涛の勢いで話がまとまっていった。
私に材料や作り方の手順を聞いて来た伯爵様が、費用を抑えるためにと分量の調節や指摘をしてくれたり、一日に作れる量をざっと計算してくれたり。
この時に教えてもらったのだが、あの屋台街は安くて美味しいものを売ることにこだわっているんだそうだ。だから、簡単な材料で作れるこのお菓子はあの屋台街向きらしい。
そして売る時は5枚ずつ小袋に入れたらいいだろうとか、とても具体的な話まで出てきた。
これはこれは、もしかしたら私は本当に屋台を出せるのかもしれない!
「あの、あの、私は屋台街で働けるのですか?」
小さな声で伯爵様に問うと、伯爵様は頷いてくれた。
内心やったよお母様! と叫びながらお母様の方を見ると、お母様は苦笑を浮かべて私を見ていた。
「ただねアルマ、あなたにはまだ難しい事が沢山あるから、経営者は私ということになるわ。あなたは商品を作って売る、売り子さん」
「それでも、私嬉しい! ……あ、でも、お母様には迷惑じゃないかしら……?」
「迷惑なんかじゃないわ。伯爵様もしっかり支援をしてくださるというし、良かったわね。」
お母様は頑張りなさい、と私の頭を撫でてくれる。これで、きっと私も役に立てるんだ。
「あ、あ、あの、ありがとうございますっ!」
私は伯爵様に向けて勢い良く頭を下げた。怖い怖いと思っていてすみません、という気持ちもこっそりと込めて。
「ああ。ただ問題なのは治安だ。誰か近くに彼女の護衛をしてくれそうな人は居ませんか?」
と、伯爵様はお母様に向けて言った。
「護衛……」
護衛と聞いて一番に浮かんだのはアーくんだった。アーくんならきっと私を守ってくれる。
だけど彼の目標は宮廷騎士団だ。私の側に居たら、彼の夢は叶わない。私のわがままでアーくんを縛りたくない。かといって他に私を守ってくれそうな人なんて思い浮かばないのだけど。男の子の友達とかも居ないしなぁ。
なんてことを考えていた時、とても絶妙なタイミングでアーくんが帰ってきた。
「ただい……ま!?」
居間に入ってくるなり、そこに居た伯爵様を見て思いっ切りギョっとしている。目を見開きすぎて目玉が落ちてしまいそうだ。
暫く混乱して立ち尽くしていたアーくんだったが、突然我に返って伯爵様に礼をする。
「初めまして、この家に下宿しているアーベント・クラーターと申します」
いつも優しく笑っているアーくんとは思えないほどキリリとした顔だった。
「君は、騎士なのか?」
と、伯爵様が問う。
「……いえ、まだ。次の試験に合格すれば騎士に」
「そうか」
使えそうな騎士候補がここに居るじゃないか、と言い出しそうな気がしたので、私は先手を打つ。
「あの、でもアーくん、いや、彼は宮廷騎士団を目指しているので……」
アーくんは次の試験に合格して騎士になったとしても、この後宮廷騎士団の訓練を受けるのだ。だから私の護衛なんてしてもらえない。
「あー、宮廷騎士団か……」
なるほど、と呟く伯爵様を見て、アーくんがこっそり首を傾げる。
私はそんなアーくんに向かって小さな声で言った。
「あのねアーくん、私屋台街にお店を出せることになりそうなの」
と。
それを聞いたアーくんは、驚いたように目を瞠っている。
「でも私一人じゃ危ないからって……。ねぇアーくん、誰か知り合いの騎士様とか、居ない?」
居たら紹介して欲しいなぁなんて、そんな願望を込めて小首を傾げて見せるが、アーくんはぶんぶんと激しくかぶりを振る。
「護衛は騎士じゃないといけないのか? あの、伯爵様、俺が護衛をします! だから、」
「騎士の試験はどうする?」
伯爵様がアーくんの言葉を遮った。
「……実は、以前一度試験に落ちたのです。だから今回も……」
「諦めるつもりか?」
眉間に皺を寄せ、とても怖い顔でそう言う伯爵様だが、声色はなんとなく優しい。
「しかし、自分以外の奴にアルマを任せるくらいなら……」
アーくんは私からも伯爵様からも視線を外して、小さな小さな声で零す。
「なるほど。俺の知り合いに元宮廷騎士団が居る。そいつに試験のコツでも聞いて次の試験で必ず合格しろ」
と、伯爵様は言った。
それを聞いたアーくんは、ついさっきの、帰ってきたあの時以上に目を見開いている。多分ちょっぴり目玉が飛び出したんじゃないかな。
「も、元宮廷騎士団の方、が、」
「あぁ。ただ脳まで筋肉で出来ているような奴だからな……教え方はあまり上手くないかもしれない。だが腕だけは確かだ。むしろ腕が確かじゃなければアイツはマジでただのポンコツだ……」
「え?」
「なんでもない。とにかく近いうちにそいつを連れてくるから、」
話がまとまってしまいそうだったので、私は思わず口を挟む。
「で、でもアーくん、宮廷騎士団は……」
と。
それを聞いたアーくんは、私の側に近づいてきてくしゃくしゃと頭を撫でてくれる。
「あれはほら、お前にカッコイイとこ見せたくてデカい口叩いただけだよ」
「じゃあ……」
「俺はアルマのことだけを守る騎士になりたい」
アーくんはそう言って恥ずかしそうに照れ笑いを零しながら、両手で私の頬を挟む。しかも挟むだけじゃなくもみもみと私の頬で遊んでいる。人が真剣に心配しているというのに。
「……本当に、いいの?」
「あぁ。そもそも俺が宮廷騎士団に入りたいっつったの、アルマが宮廷騎士団カッコイイとか言い出したからだし……」
「私は宮廷騎士団よりアーくんのほうがカッコイイと思ってるよ? んぶっ」
アーくんは突然両手に力を込めて私の言葉を止めた。
そして勢いよく伯爵様のほうを向いて、
「俺、試験頑張ります」
と、宣言している。
「おう、頑張れ」
伯爵様は眉一つ動かすことなく簡単に答えた。
さらっと元宮廷騎士団の男の悪口を言う伯爵様。