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1-5

 5、6と二部の更新となります。今回の更新で完結となります。


 外へ向かっていく煙は、天井を伝って舐めるように流れていく。それに対して僕は身を屈めて魚の如く前へ前へと進む。

 どうやら、一階は貴金属や服飾を販売する階だったらしい。人の波に流されて、踏みしだかれた数々の高価そうな服たちがそれを教えてくれる。きっと僕には一生手が届かない、もとい興味が持てないモノなんじゃないだろうか。

 屋内に入っても火は見えない。この状態ではエレベーターは使うのは危険だ、というか僕が使いたくない。

 鼻をつく焦げ臭さは、もはや味覚として襲い掛かってくる。口の中がひどく苦い。まだ大した時間も過ぎていないのに、うがいがしたくなる酷さだ。

 (階段はこの角を左か……。そこが駄目なら先にあるエスカレーターを使うしかないな)

 歩みを進める靴裏を濡らす水はスプリンクラーによるものか、やけに汚れた水が床の上にぶちまけられている。大理石で出来た床に足をとられないよう、慎重に階段へ向かおう。

 「良かった……」

 階段は無事だ。店内の過度な装飾に比べたら質素に見える階段は、煙を循環させるダクトの役割を果たしてはいるが崩落は起こしていない。僕が思っているより火事が起きてから間もないのだろう。これなら余裕で少年を連れて脱出まで間に合うかもしれない。

 「ったく、子供を置いて自分だけ逃げてくる親が何処に居るか!」

 先ほどの、少年を探している母親は良く言えば豪奢、悪く言えば下品な格好をしていた。見た目で人をとやかく言うのは下世話だと思うが、正直印象が悪い。印象が悪ければ、全ての行動が否定的に見える。

 「そもそも母親なら母親らしく慎ましいそれらしい格好をだな―――――うおっ!?」

 突如噴出した怒りの小言は、建物を揺らす衝撃と轟音で遮られた。壊れたパイプオルガンの音色を何十倍にもしたような、腹に響く重低音と鼓膜を掻き毟る不愉快な高音。その不協和音は震動と共に現れ、そして静寂を残して去っていった。

 (鉄骨が千切れた……!? 何だ、何が起きている!?)

 未だにキィキィ……! と不安感を煽る金属音が何処からか聞こえてくる。その方向は……上だ!!

 急がないと取り返しのつかないことになる。少年も、勿論僕も。認識を改めて、歩みから駆け足へ変える。急いで急いで、階段を駆ける。

 普段の運動不足が祟り、足に早くも疲労がたまるが、気にせず駆ける。最初は律儀に一段ずつ昇っていたが、途中から二段飛ばしに。とにかく急がないと……!

 呼吸の激しくなるにつれて、目から涙が溢れてくるようになった。喉が不快を通り越して痛みを訴えるようになった。火の災いが、着実に僕を蝕みつつある。

 視線の隅でチラリと見えた二階と三階は、既に黒煙に埋め尽くされてしまい、何も見えない。何故か僕には、その、”不定形な黒”が空間を埋め尽くす光景が「死」を現しているようにしか見えなかった。

 そうだ、これは「火災」なんだ。火の災い。火の怒り、火の呪い。どう言っても差し支えない、「災い」とは人には抗えないから「災い」なのだ。僕は今、火神の腹の中にいるのと同じなんだ。

 さらに轟音が鳴り響く。次は何かが砕ける音だ。照明までも怪しく点滅し始める。気のせいか、煙の量が増え、粘度が増している気がした。明らかに一階の入り口付近とは程度が違う。死が、とても身近に感じられる。

 (くっそ、これは……やばいぞ!)

 四階に着く頃には、僕は鼻水を垂ら、えづき、肩で息をしていた。まさかここまで煙が辛いとは思わなかった。粘膜が炭でガリガリと擦られるのにも似た痛みが、感覚器官を襲う。

 「探さ、ないと……っ」

 今までとは違い、四階は異質だった。いや、一階に比べたら二階も三階も別だったが、四階はそれらとは別のモノだった。言うなれば、四階は「世界」が違う。ここは紛うことなき――――「地獄」だった。 


 例えば臭い。今までの何かが焦げた臭いとは違い、鼻腔から脳髄を侵すようなモノに。

 例えば音。今までの金属音や破砕音とは違い、本能を脅す轟々と燃え盛る炎のモノに。

 例えば視界。今までの煙覆う世界とは違い、根の国に広がる八千代の闇の如きモノに。

 例えば触感。今までの肌に纏わりつく空気と違い、産毛を焦がす熱された鉄のモノに。


 異常だ。こんなにも簡単に、現実とは崩れるものなのか。こんなにも簡単に、現実は失われるものなのか。

 黒と赤に彩られた空間を、熱風が駆け抜けてくる。こんな所に人が居られる訳が無い。早く、少年を探さないと。

 「おーい、大悟くーん!!」

 叫び、身を屈めて火吹く四階へ足を踏み入れる。あらん限りの大声を出してはいるが、このデパートのフロアはそれなりに広い。その上、こんな状態だ。声が届くとは限らない。それでも、出来る事が呼びかけるだけとは。

 「くそッ、大悟ォ! 何処にいるー!?」

 叫びは沸き立つ煙に吸い込まれ、何も返ってこない。ただ虚しく、自分の声だけが響く。

 (まさか間に合わなかったか!? それとも、何処かに……?)

 目端でちらつく燃え盛る炎が絶望を煽る。ちらりとメリーさんの顔が思い浮かんだが、首を振ってすぐに否定する。彼女は冗談は言えど嘘はつかない。

 「返事しろッ! だい……ゴホッ、ゴホ! ぐぁ……!」

 喉に何かがつかえ、咳き込んでしまった。ヤバい、本当にここは危険だ。一度階段まで戻るべきか……?

 殆どしゃがむような体勢になり、咳が落ち着くまで立ち止まる。その時……何処からかしゃくりを上げる声が聞こえてきた。ひっ、ひっ、苦しそうに何度も何度も喉を鳴らしている。

 (何処だ……すごく、近い。でも、遮られているような……)

 音のする大体の方へ目を向ける。四階はおもちゃ売り場だったようだ。ある区画では既に火に蹂躙され、機械の玩具たちが溶け、黒く変色していた。声がするのは、その区画の左手に設置してあるサービスカウンターからだった。

 周りをぐるりと囲むコの字形の机によって、よく見えないが、その中から声は聞こえて来る。僕は立ち上がり、一気に駆ける。今はまだ大丈夫だが、横の区画は既に火の海だ。いつサービスカウンターに火が移るか分からない。

 震える足を動かし、思い切って机に飛び乗る。上から見下ろすと、床に胎児の様に丸くなって倒れている男の子が居た。彼は膝を抱えて泣きに泣き、頬を濡らしていた。一見するとやんちゃそうに見えるのは、頭に被った野球帽によるものか。

 飛び降り、「大悟」と思しき少年を引っ張り立たせた。少年は驚き、涙を流したまま呆然としている。

 「君が……大悟か?」

 自分の置かれている状況が理解できないらしい。僕はもう一度訊ねる。

 「――君は大悟くんか!? はい、返事!!」

 「ひゃ、ひゃい!!」

 怒鳴ったおかげか、次はすぐに返事をくれた。

 「お母さんとはぐれたんだね? よし、もう大丈夫だ。お兄ちゃんが助けに来たからな」

 “助け”という言葉で、少年の顔はぱっと明るくなる。自分でも似合わない台詞だと思うし、「お兄ちゃん」というガラでもないが、ここは僕が大人ぶってあげるべきだろう。彼から頼れる大人であるだけで、彼が安心出来るならそれを演じてやろう。

 「あ、あのそのオレ、もう駄目かと思って……むぐっ!?」

 またも泣き始めたが、すぐさま口をハンカチで押さえる。大悟は少し面食らっていたが、理由を察してくれた。

 見たところ、彼に目立った外傷は無い。横になっていたおかげで煙も吸っていないようだ。良かった、酷い火傷などされていたら僕にはどうしようもなかった。

 「さて、とっとと逃げちまおう。歩けるかい?」

 意識して口調を強めのモノに変える。大悟は元気良く立ち上がり、こくんと頷いた。きっと普段の彼は、元気一杯の男の子なのだろう。

 「よーし、良い返事だ。僕の手を離すなよ?」

 大悟の小さな手を握る。強く握り返され、イヤでも彼の気持ちが伝わってくる。この時になってやっと気付いた。人の事などどうでも良いと思っていた僕は――本当にクソッタレだった、と。

 (まったく、メリーさんには敵わないな……)

 彼女には教えられてばかりだ。後で感謝と皮肉を伝えるためにここから出よう。僕も強く彼の手を握り、二人一緒に小走りで階段へ駆け始めた。

 火の勢いは止まることなく、四階を侵していく。この調子だと、四階より上は全て火の海に成り果てているだろう。

 (でも、間に合いそうで良かった)

 僕の呼吸もかなり苦しくなっているが、どうにかここから出るまではもちそうだ。何よりも、「助かる」という気持ちが活力をどんどん生み出してくれる。大悟も問題なさそうに走ってくれている。

 「よしっ! やっと階段だ!」

 後はここを駆け下りて、一階を抜ければ外に出られる。振り返った背後は既に炎が踊っており、戻る事など出来ない。もっとも、戻る必要などないが。

 「やったー!」

 大悟の目にも喜びが映る。彼は先んじて駆け、僕の手を引っ張ってくる。引っ張られるような形で追い掛ける僕はあることに気付いた……天井に小さなヒビが入り、コンクリートの欠片が落ちてきていることに。

 「――――――危ないッ!!」

 そのヒビはあっという間に広がり、そして―――崩れ落ちてきた。

 「うわあぁああっ!?」

 あらん限りの力で大悟を引っ張り、胸で抱きとめる。勢いを殺さず、そのまま身体を後ろへ倒す。

 「くっ!?」

 とっさに身を反転させて大悟に覆い被さり、降り注ぐ瓦礫を背で受ける。肉が潰れる鈍い痛みが雨霰と降り注ぐ。目を閉じ、その苦痛に耐える。ただ、胸の中に居る大悟が怪我しないことを祈るのみだ。

 一瞬の混乱、轟音、そして訪れる静寂。もう安全だと顔を起こすと……。

 「階段がぁ……」

 絶望に打ちひしがれた声で呻く大悟。全くもって、一字一句、僕と同じだ。まさか、ここまで来て階段が塞がるだなんて!

 (どうする!? どかす? いや、無理だ)

 崩落した天井は、上手い具合に階段を埋め、そして砕き崩した。巨大な鉄骨が、積み上がった瓦礫の中から飛び出ている。恐らくコイツが元凶だろう。

 「やっぱりダメなんだ、オレたち……ここで死ぬんだっ!!」

 その言葉を聞いた僕は、反射的に大悟の胸ぐらを掴んでいた。自分でも分からない激情に突き動かされ、大悟を睨み付ける。

 「諦めるなッ! 君が諦めたら、誰が君を助けてやれるんだ!? 無責任に自分を諦めるな!!」

 まさか自分でもこんな事をするとは思わなかった。胸ぐらを掴んだ事なんて、生まれてこのかた一度も無い。

 「そ、んなこ……と言ったって、じゃあ、どうす、るのぉ?」

 またしゃくりを上げた大悟はすんすんと泣き始めてしまった。流石に言い過ぎた、と思って手を胸から離そうとすると――

 「……え? あ、ちょっと待て、大悟? 大悟!?」

 ――ぐらり、と気を失ってしまったように体から力が抜けてしまった。仰け反った大悟は白目をむいて何も答えない。

 (まさか、一酸化中毒? 何でも良い、ここから脱出しないと……!)

 強引に大悟を背負い、立ち上がる。もう手段は選んでいられない。こうなったら火の海を駆け抜けて窓を破って飛び降りるしかない。受け止めてもらっても大怪我は間違いないが、ここで焼死を待つよりは幾分マシだ。僕が覚悟を決め、実行に移そうとしたその時。

 

 「私、メリーさん。力を貸してあげるわ――莞爾、あなたにね」


 メリーさんの声が耳元で聞こえた。驚き、振り向くと、気を失ったはずの大悟の口がぱくぱくと動いている。まさか……?

 「本当にもう、この私が何度も何度も電話しても出ないなんて私刑に値するけれど、今回は様々な状況的困難を鑑みて、今後は一切バッグ禁止程度で赦してあげるわ。私の心の広さに感謝しなさい! それで仕方ないから、この子の口を借りる事にしたわ。あっ、この子には眠ってもらっただけだから大丈夫。ただ、けっこう強引に借りたから何か後遺症とか出るかもしれないわね」

 一気に捲くし立てられ少し怯んでしまった。だが傲岸不遜、しれっと惨い事をするその性格は、間違いなくメリーさんのものだ。と、言うかメリーさん以外にそんなヤツが居たら困る。

 「こんな事出来るなんて僕は知らなかったんだが……」

 「聞かれなかったから。はい、疑問も氷解したわね。じゃあここから出る道を教えてあげるから、言う通りに、馬車馬が如くシャカシャカ走りなさい!」

 自信満々に告げる彼女、思わずくくっと笑ってしまう。先ほどまで生きるだの死ぬだのとやっていたのが嘘のようだ。

 「メリーさんには敵わないよ、やっぱり。さぁ、どうすれば良い?」

 「素直でよろしい。まず……待ちなさい。今、天井が崩れるから」

 何を、と僕が訊ねようとしたが、本当に目の前で天井が崩れた。かなり規模が大きな崩落で、目の前の火の海が一瞬で消え去った。もう少し前に出ていたら僕も巻き込まれて死んでいただろう。

 崩れた衝撃で、床の所々に穴が空いている。まるでゲームの落とし穴のようだ。僅かに残った足場は、網目状に張り巡らされていた基礎部分の鉄骨が半ば剥き出しになっているもの、という有様だ。しかもその鉄骨も折れ曲がったり千切れたりと、半数は本来の役割を果たしていない。

 「さ、これで火が随分減ったわ。指示通りに動きなさい。一歩外したら……死ぬわよ?」

 さらりと「死ぬ」と言ってくれたが、僕は子供を一人背負っていて、呼吸が乱れに乱れている。そんな状態で目の前の不安定な足場に命を預けたくない。

 「参考ばかりに訊ねるけど、安全で楽ですぐに脱出できる方法って、他に無い?」

 「あるはあるけど、それは死なないと無理ね。あなたも私たちの世界に入門してみる?」

 死体になってここから運び出されるのは御免蒙る。仕方ない、根性を見せるか。

 「はい、じゃあそこから思いきり踏み切って、右のでっぱりへ。そこで踏ん張って中央の鉄骨へ飛び移る。取り合えず、ここまで頑張って」

 彼女の指示を目で追うが、確かにかなり無茶だ。崩れかけた足場に飛び移ってそこを踏み台に細い鉄骨の上へ移動しろ、と言うのだから頭が痛くなる。だが、とにかくやるしかない。

 「……っし。うおおおおおおおおおおおーッ!!」

 いちかばちか、捨て鉢になって地面を蹴り付けて走り出す。自然と雄叫びを上げてしまうのは、人の性なのだろう。

 (こんな時にまで下らないことを考えてしまうとは、我ながらどうかしてるな!)

 いつもより重たい衝撃が足裏へ返ってくる。空いた穴へ吸い込まれていく黒煙、

そこへ切り込む様にして――跳んだ。

 (届く、届く届く届く届く届く!!)

 願いに似た悲鳴で己を満たし、右足を伸ばす。元は綺麗な大理石も、ひび割れ歪み、滑り落ち、かろうじて斜めになって引っ掛かっているだけだ。そこへただ、着地する事だけを考える。

 「よっし……!」

 届いた。右足、そして左足と地に足を着ける。やかましく鳴る心音が耳奥で騒ぎ立てる。しかし、届いた。ほっとしたのも束の間、

 「早く跳びなさいっ!」

 やけに焦ったその言葉に、考えるより早く膝に力を溜めて跳躍する。すると、踏み付けた足場はあっという間に砕け、崩れ落ちた。

 「危な……!?」

 「――前を見る!」

 メリーさんの言葉は、僕の意識の矛先を強引に捻じ曲げた。ぶれる視界が捉える鉄骨は見る見る近づいてくる。

 全神経を足裏へ。次は両足同時に着地した。尖った石片が靴越しに突き刺さってきて、それなりに痛い……額に脂汗が滲む程度には。

 背負った大悟の重さと、着地の衝撃でたたらを踏みそうになるが、歯を食いしばって耐える。ぐらり、と前のめりになるが、太腿の筋肉が引き千切れんばかりに力を込め、身を引き戻した。

 「……っはぁ! し、死ぬ、死ぬって!!」

 死に掛けた。最低でも二度は死に掛けた。て言うか現在進行形で棺桶に半身突っ込んでる。死神にキスされまくってる。

 「ほら、休んでる暇は無いわよっ。鉄骨に沿って歩く! あと、言いたくはないけれどここも崩れるわよ?」

 「は、はい……」

 死のイメージを振り払い、何処へ続いているかも分からない鉄骨の上でおっかなびっくり歩を進める。焦らず、慎重に歩を進めていけば大丈夫、大丈夫……。

 急いだほうが良いのだろうけれど、思うように進めない。半ばまで差し掛かった辺りで、ちらりと上を見ると五階の天井が見えた。下を見ると三階に瓦礫が散らばり、もう火の手が上がっている。確実にここから落ちたら死ぬ。

 「あまり下は見ないほうが良いって、ありきたりな台詞を言われたいの?」

 釘を刺され、顔を上げた。ちくしょう、下なんて見なければ良かった。こんな曲芸、今日びテレビの芸人でもやりゃあしない。

 轟々と炎の渦巻く音と、自分の呼吸だけが聞こえる。時折、火の粉が舞い、顔面を撫でていくが、集中力を切らす訳にはいかず無視し続ける。

 「熱い、な」

 煙は勝手に穴から出て行ってくれるようになったので随分マシになったが、その代わりに熱気が身を灼く。気分はとろ火で焼かれるスルメだ、じりじり灼かれて顎から汗が滴り落ち、鉄骨を濡らした。

 下らない事を考えていると、遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。ようやく、消防隊が駆け付けてくれたらしい。それもそうだ、この百貨店の中はもう地獄の底の劫火に満ち満ちているのだから。

 「……はい、お疲れ様。左にまだ崩れてない通路が見えるわよね? そこから真っ直ぐ行って突き当たった所に外付けの階段があるわ。それで一応……外には出られる」

 言葉尻、少し口ごもったが外に出られるのはありがたい。再び活力が沸いた僕は、危なげなく鉄骨から通路へと飛び移り、一気に廊下を駆け抜けた。

 普段ならスタッフしか入れない扉に体を叩きつけ、押し通り、段ボールが積まれた狭い廊下を駆け、ついにみすぼらしいドアまで辿り着いた。

 急いで取っ手を回そうと手を掛けたが、鍵が掛かっているのか一向に開かない。ドアに付けられたスモークの窓からは外の光が見え、余計にじれったくなる。

 「ここは任せて……んっ」

 不思議な事に、メリーさんが気合を入れるとドアは勢い良く開いた。煤けた屋内のものとは違う、新鮮な空気が頬を叩く。その夏の青臭い空気を肺一杯吸い込んだ。

 「ふぅ、良かった。私もなかなかのものね」

 その声は何処となく疲労を感じさせるものだったが、自賛の声色も混じっていた。心の中で彼女に感謝しつつ、外へ出る、が……。

 「――え、これって、まさか……?」

 確かに外には出られた。眼下には集う野次馬、消防車に救急車、テレビ局の物と思しき車まで見える。だが、何よりも重要な――

 「下への階段が無いじゃないか!!」

 そう、この外付けの、鉄柵で出来た階段。これは上の階へ向かうためのものであり、非常時に使われるものでは無かったのだ。僕はてっきり、「非常階段」だとばかり思っていたのだが……。

 (そういえば、メリーさんの様子もおかしかったもんなぁ……)

 一応、百貨店の隣にビルが建っているが、飛び移る事など無理だ。距離が開き過ぎているし、窓も全て閉じられている。どうやら隣の建物が家事と知るや否や逃げ出したらしい。これでは誰かの助けも望めないだろう。

 「うぅ、くっそ……」

 ここに来ての落胆は、予想以上に重かった。背負っている大悟の重さを思い出し、意識しないようにしていた疲労が途端に噴き出し始める。

 「大丈夫、ここから脱出できるから。私を信じて、ね?」

 メリーさんの励ましに、もしやと思って上を見る。あの抜け目無いメリーさんだ、もしかしたら何かあるのかもしれない。

 「ひどいな、これは……」

 外から見た百貨店は、面白いように燃えていた。七階建ての上層は外壁が剥がれて黒い墓標のようになって煙を垂れ流している。内部を焼き尽くす炎は相変わらず外からは見えず、尋常ではない煙の量だけが火勢の指針となっているようだ。こうしている間にも外壁は崩れ、僕の目の前を落ちて行き、路地の隙間へと消えていった。

 (あぁ、これはアレだ。アレに似ている……)

 僕は子どもの頃、興味本位で火をつけたマッチ棒製の家の末路を思い出した。ただ燃やす為だけに一夏かけて作ったマッチ棒の家。アレは悲鳴にも似た、膨張した空気の弾ける音を上げながら黒炭へと姿を変えた。きっとこれもそうなるのだろう。

 「して、メリーさん。その秘策とは何か教えてもらえるかな?」

 「まぁ、その時が来たら教えてあげるから昇ってもらえるかしら?」

 さらりと躱されたが、そうはいかない。今回ばかりは命が掛かっている。それも僕のものだけじゃなく、この大悟という少年のものも、だ。

 「これは退けないよ、頼むから教えてくれ」

 「教えられないわ、絶対に。でも必ずあなた達二人は助かるわ。それとも――私が信じられない?」

 「それは……卑怯だな」

 その言葉は、僕にとっては鬼札。それを言われたら、もう何も言えない。僕は、諦めて溜息を吐くと燃える墓標に向かって階段を昇り始めた。




 次へと続きます。

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