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1-1

 ゆっくりとした更新ペースになるかもしれません。

 「暑い……」

 うだる夏の昼下がり、僕――黒賀莞爾はせまっ苦しいアパートの一室で完全に腐っていた。

 巷を騒がせる就職難、ご多分に洩れず僕も煽りを食らっていた。

 どれほど説明会に行き、適性検査を受け、面接に臨んだか分からない。しかしどの企業も僕の事を必要としていないらしい。来る電話とメールは僕の健闘と今後の活躍をお祈りするものだけだった。

 クーラーも無い暗い部屋。湿気にふやけてしまいそうになりながら、窓の向こうの青空と入道雲を睨み付ける。聞こえてくる声は、夏休みを謳歌する子供たちの賑やかな声。その能天気な声がさらに僕を惨めなモノにしている気さえしてくる。

 「暑い……」

 繰り返される言葉と思考。とにかく、就職以外のものに意識を向けていないとどうにかなってしまいそうだ。

 何が悪いのだろうか、僕は己に問いかける。何故ここまでどこにも引っ掛からないのだろうか。顔が悪いのだろうか? いや、顔は関係無いと思いたい。ならば性格か。それなら……どうすることも出来ないな。

 僕はそのまま畳の上にとろけていく。柱に掛けられた時計の針が指し示す時刻は二時五十分、そろそろ家から出ないと大学のゼミに間に合わない。しかし、しかし身体が動かない。

 横倒しとなった視界に映るのは、積み上げられた資料と図書。いつもなら嬉々として読み始める地方の民俗誌も、今は欲しくない、読みたくない。

 喧しい蝉の鳴き声、大学へ行けば冷房くらいは効いているだろう。理由はどうあれ、気力の沸いてきた僕は弱った心身に鞭を打って、大学へ向かった。



 使い古されてくたびれたリュックを担ぎ、炎天下の中を歩く。とめどなく溢れる汗は、玉となって身体を伝っていく。シャツに染みこんだ汗すら、灼熱の日光ですぐさま乾いていき、消えていった。

 陽炎がゆらめくコンクリートの道をだらだらと歩く僕は、もはや死んだ意識で足を動かす。

 足を引き摺り、構内へとたどり着く。だがしかし、建物の中も涼しくない。いや、むしろ――

 「何これ……」

 蒸す。肌に湿気が纏わりつく。僕の身体が結露したように水滴が浮かび始めた。とてもじゃないが、これなら僕のアパートで水風呂でも入っているほうがマシだ。

 帰ろうか、ここまで来て帰るというのも勿体無い気がするが、これで教授の長話を聞きながらメモを取ると思うと憂鬱通り越して首を括りたくなる。

 リュックを背負い直し、帰ろうと出口へ向かうと―――

 「よっす、黒賀! 今日もあちーな!!」

 声を掛けられた。振り返ると、そこには団扇を片手に階段から降りてくる男が。作務衣にサンダルで涼しそうだが……汗で作務衣が変色していた。

 「あー! こっちに来ないでくれ! 暑い、暑いんだ!! キミまで近寄って来ようものなら僕は死んじまうっ。頼むからこっちに来ないでくれ、小泉!」

 小泉と呼ばれた男は、頭に巻いていたタオルをほどいて首に掛けた。そして頭を掻いてヤレヤレと首を竦める。

 「一週間ぶりだってのに冷たいねぇ。そんな暑くて暑くて仕方の無い黒賀クンに良い知らせがあるんだけどなぁ」

 ニヤニヤ笑い、ゴマを摺る仕草。胡散臭い事この上ない。そんなに手を擦り合わせたら摩擦熱で暑さが増しそうなものだが。

 「何だ? クーラーでもくれるってか?」

 ノンノン、と指を振り、もったいぶる小泉。何でコイツはこう、うざったい仕草をいちいち入れるのだろうか。

 「大学のクーラーまで止まってんのに何言ってんだ。何と、だ。本日、学部の奴らで集まって”納涼百物語”をしようと思います! イエーッ!!」

 「勝手にやれ。僕は家で氷でも齧ってる」

 ふざけた事を言う小泉に背を向けて、外に出ようとする。しかし、僕が外に出るよりも早く、小泉が僕の道を遮った。しかもわざわざ両手を広げて、だ。

 「チョイチョイチョイチョイ!? 何でだよ! お前、そういうの詳しいだろ!? 俺らじゃ百も話せねぇよ! そ、そうだ! 他の大学からも女の子が来るぞ! な、良いだろ!?」

 「最初から誰かを期待するな。何より僕は人間女に興味なんか全く無い! しっし! 退け、下半身に脳がある新人類どもめ! 僕は生殖なんかよりもやることがあるんだ!」

 どうにか通り抜けようとするが、馬鹿みたいに反復横とびをして僕を頑として通そうとしない。額に汗が滲み出し、見てる僕まで暑くなってくる。

 「ヘイヘイヘイヘイ! ここは通さねぇぜ!? ここを通りたかったら首を縦に振るか、俺に勝って――ぐぉッ!?」

 僕が蹴りを見舞おうか迷っていたら、突然扉が勢い良く開き、小泉の後頭部を強かに打ちつけた。そのまま倒れ、転げ回る彼のことは意識から一旦外す。扉の向こうから現れたのは、僕のゼミの担当、柳田教授だった。

 「……ん? 誰か居たかな? ―――あ、良い所に黒賀くん。さぁ、この老いぼれを助けると思ってこの鞄を持って教室まで同行願えるかな?」

 そう言って、僕が何か言う前に黒い皮の鞄を押し付けてきた。僕は思わず受け取ってしまい、そして後悔した。あぁ、これはゼミは強制的に参加だな。

 「いやはや、どうも日本は年々暑くなっているみたいだねぇ。この歳になっても季節に翻弄される生活をするとは思わなんだ」

 帽子を脱ぎ、すっかり毛の抜けた禿頭をハンカチで撫で回す。こう見ると本当に光り輝いているのだから、驚きだ。

 「さぁ、早く行こう。キミぐらいしか私の話など真面目に聞いていないからね。私は黒賀くんが居る時だけは頑張る事にしているんだ。これはここだけの秘密だよ?」

 かんらかんらと豪快に笑うと、階段を昇って行ってしまった。柳田教授は、床に伏せて無駄に哀れっぽく頭を押さえる小泉に気付いていたのだろうか? もし気付いていながら無視したのならば凄い。僕も是非ともその精神力を身に付けたいものだ。教授が消えて、口を開いてまた何か下らない事を言い始めた小泉に対し、さっそく僕はその精神鍛錬を実践する事にして教授の後を追った。



 「―――と、言う訳で現代の都市伝説は、さまざまな情報媒体を手に入れたことで化け物たちの姿を変えてしまったのです」

 教授の話は、どれもこれも興味深く、面白い。僕の学んでいる事と方向が合致していることもその要因であるが、何よりも驚嘆すべきはその知識量だろう。単純に、歳を取っていることがこれまでの強みになるとは、正直僕は驚かされた。

 「―――化け物ってのは妖怪の事です。まぁ神様と言っても良いですが、短絡的に神が零落したものが妖怪であると定義付けするのは非常に危険です。彼らの発生経路は同じ場所であることが多いですが、往く道も来た道も違うのですから」

 ただ、問題がある。そんな教授にも一つだけ問題が。それはそう、僕の知っている限り、この話はもう四度目なのだ。

 「―――以前は妖怪と言ったら動物や器物であることが多々でした。もちろん、何が何だか分からないようなモノも居ますが。それが現代では鼬も狸も狐も隣人では無くなっているのです。むしろ、隣人と呼べるのは携帯電話やパソコン、そして……誰が隣に住んでいるか分からないといった恐怖も隣人と言えるでしょう。人間に対する恐怖です」

 教授曰く、『最近の子は馬鹿だから何度も言ってやらないと記憶しない。それにどうせ、そんな馬鹿は聞いたことすら忘れているから何度もありがたがる』といった事らしい。全く、あの教授らしい。

 「―――そこらへんのネットにも転がっている思いますが、『精神に異常をきたした人間』が原因となる話、『電話から何かが話しかけてくる』という話……ま、挙げればいくらでもありますね。じゃ、はい。黒賀くん。前者に当たる都市伝説は何か知っているかな?」

 話を振られた僕は、すぐさま答える。教授が講義中に話しかけるのは僕だけだ。最初こそ、僕以外の生徒にも質問を振っていたのだが誰も彼も「分かりません」、「今、考え中です」と返すので、嫌になったらしい。僕としても講義がスムーズに進むので願ったり叶ったりだ。

 「はい。ただの精神失調ならそれこそ列挙されるものが多いのですが、”口裂け女”などは”人”か”怪”か区別できないモノだと思います。大抵、彼女の話は整形に失敗して精神が狂ったとされる事が多いです」

 「―――うん、そうだね。ここで大切なのは『整形』だ。そして『医療事故』。これは今の社会特有のものだね。古くは”手の目”という妖怪がいたけれど。彼には眼が無い。そう、視覚障害者がモデルになっている。じゃあ、”口裂け女”は? そう、『医療事故』だ。じゃあ黒賀くん、現代の電気機器がモデルとなっている話は?」

 殆ど、僕と教授の個人授業だな、と心の中で苦笑する。

 「はい。例えるなら”メリーさん”が挙げられると思います。棄てられた西洋人形から電話が来るとされるものです。付喪神の一種だと思いますが、それでは安直過ぎるような気がします。物、それ自体が怪となって動き出すのか、物に何か魂が宿るという呪術的要素を持つモノなのか」

 「―――うん、そうだね。この話で重要なのは『電話』だね。電話の無い時代は扉を叩く、門を叩く、障子の向こうに影が映る……そうそう手紙もあるね、当然だけど。手紙で迎えに来る、なんてのは世界中にある。ま、宛先がどこからか分からないなんてのは恐怖そのものだね。今みたいにダイレクト・メールが馬鹿みたいに送られてくるなんて、昔の人たちは思ったのかなぁ。……えーっと、つまりは身近にあるモノってのも怪異となりやすいんだ。それこそ、雨が降っただけで妖怪が出るんだから不思議なものだねぇ」

 柳田教授がブラインドを開ける。そこに映し出される外の風景は、夏の夕立。

 「天気晴れなら狐たちが嫁入りしているし。何で雨の日にわざわざ嫁入りするか知っているかい? 疑問に思った人……うんうん、手を挙げるくらいには話は聞いているのかな? 答えを知りたかったら自分で調べる事だ。口を開けていても牡丹餅は落ちてこない。ただ講義に通っていても何も身に付かない」

 手を挙げている生徒たちは見て取れるほど、不快感を露にする。柳田教授はそれを愉快そうに眺めている。

 「思えば携帯電話というのは何かの怪異なのかな。人をそこへ目を向けさせる、ね。講義だというのに小さな画面に釘付け、それが元の不注意で人も死んでいる事を考えると、やっぱりおっかないねぇ。私はそのうち、その携帯電話がハーメルンの笛の音に変わるんじゃないかと思って怖いな。まぁ、その現場が見れたら良い冥土への土産になりそうなもんだけど」

 そして豪快に教授が笑っているうちに講義終了の鐘は鳴り響いた。



 いくら日が長いと言ってもこの時間にもなれば照っていた太陽も落ちて、幾分涼しい。多少ながらも僕の足取りは軽い。小泉にも逢わなかったというのも理由の一つではあるが。

 僕の家の近くまで来ると、電灯も人も少なくなる。その寂しさが、僕に積みに積まれている問題の数々を思い出させた。途端、足は鉛の様に重くなる。

 「どうしようか……」

 思わず言葉が洩れてしまった。また明日、面接を受けに行くか。それとも何か金になるような話でも探してくるか。とにかく、家に居るのは嫌だ。いや、家の外に居るのも嫌だ。どん詰まり、とは言わないが気は重たくなる。

 チカチカ、と光る遠くの電灯。その光に集う羽虫たち。飛び交い飛び交い、死んだものは下へ落ちていく。まるで暗闇を恐れるように、一人でいることを恐れるように、光の中へ飛び込んでいく。

 「ん……?」

 虫たちに気を取られていたが、その輝きの下――ゴミ置き場に何かがあるのが見えた。それは影となって、輪郭でしか姿を世界に晒さない。

 アレは何だろう。僕は近づき、電灯の光が眩しく感じる地点までやって来て、答えを知った。その影は――

 「――――――人形、だ」

 青いポリバケツの上、座らされていたのは青と白を基調としたドレスを着た西洋人形だった。

 雲のように白い肌、海のように碧い瞳。それは一目で立派な高級品だと分かる。薄汚れているが、それでも損なわれない美しさと高貴さがあった。

 僕は吸い込まれるように人形へと近づいていく。手を伸ばし、指が触れるか触れないかの刹那、

 『はい。例えるなら”メリーさん”が挙げられると思います。棄てられた西洋人形から電話が来るとされるものです』

 自分の言葉を思い出した。そうだ、これは”メリーさん”の話通りの展開じゃないか。まさかあの話が本当だと思えない。思えないが―――

 「……………………」

 人形から発せられていると錯覚する程強い引力。これ以上、あの人形に目を合わせていたらどうなるか分からない。僕は強引に顔を背けた。

 「まさか、な!」

 自分に言い聞かせる空元気を言葉に乗せ、口にする。

 「まさかメリーさんが此処に居るわけないし! 僕も暑さにやられたかな! はっはっはっはっは――――早く帰ろう」

 誰も居ない路地、電灯の下に人形と僕だけ。途端に一人で笑っているのが馬鹿馬鹿しくなり、僕は溜息をついて歩き始めた。そして、家に着く頃にはそんな人形の事も忘れてしまった。


 

 食事と風呂を済ませ、後は寝るだけ。僕は結局、明日は何も予定を入れない事にした。この部屋で腐れるだけ腐って、図書館にでも行って涼んで一日を終えよう。そう決めると夏掛けを適当に身体の上に乗せて布団に倒れこんだ。

 暗い部屋で、僕は暑さと格闘しながら将来の不安に怯えていた。


 僕はどうなるんだろう?

 僕は内定を貰えるのだろうか?

 僕は会社でちゃんと働いていけるのだろうか?

 僕はこの先の人生、後どれだけ酷い目に遭うんだろうか?


 ぐるぐると厭な未来が脳裏に映し出される。一体、僕は誰を護り、誰が僕を護ってくれるのだろうか? 僕に誰かを護れるのか? 護りたい人はいるか? 僕には誰も居ないのか?

 疑問は重なり合い、雪崩となって僕を押しつぶす。その重さたるや、息が出来なくなるほどだ。どうすることも出来ない未来への恐怖。ついに僕の目から涙が溢れてきた。

 怖い! どうしようもない程、この世界が怖い!

 熱帯夜の中、夏掛けを頭から被って、世界から自分の身を護ろうとする。僕にはただ耐えることしか出来ない。

 恐怖と苦しさと眠気と暑さと。それらが綯い交ぜになった悪夢にも似たまどろみ。そのまま眠りの中へゆっくりと落ちていくはずだった意識は、ひょんなことから覚醒した。

 (あぁ、そうだ。リュックに水筒が入れっぱなしだった……)

 すべきことを思い出し、のそのそと起き出す。この時期に使った水筒をそのままにするのは危険だ。それも飲みかけなら尚更である。

 部屋の隅に放ってあるリュックを引っ張り、抱える。チャックを開き、そこへ手を突っ込む。

 確かリュックに閉まってあるのはペンケース、水筒、メモ帳、紙束、電子辞書、そして自分でもどれだけ入っているか覚えていない単行本の数々だ。

 がさがさと漁るが、水筒に手が触れない。手に触れるのは……紙束だろうか。汗でも染み込んでしわくちゃになってしまったのか、いつもと触り心地が違う。

 「……面倒くっせぇ」

 業を煮やして、リュックを床に下ろす。電気を点け、思い切りチャックを開く。当然、そこには乱雑に絡み合った数々の荷物が。

 これは、ペンケース。うん、中学生の頃からの愛用品だ。

 これは、メモ帳。うん、今日の教授の発言もしっかり書き取ってある。

 これは、紙束。うん、袋から出てバラバラになっている。

 これは、電子辞書。うん、電池が切れている。

 そして―――これが、西洋人形。うん、ゴミ捨て場に……あれ!? ななななな何で此処に!?

 「―――――落ち着け。落ち着くんだ僕。焦っても何にもならない。そうそう、深呼吸。深呼吸だ。これは、そう。ゴミ捨て場にあった人形だ。綺麗だな、と思ったが昼間『メリーさん』の話をしたから忌避した西洋人形だ。オッケー、オッケーだ。間違いない。その後、家に帰ってきてモヤシ炒めと冷凍ご飯を食べて、風呂に入って、資料を細分化して、うん。憶えてる。資料の内容も完璧だ。今なら愛媛の"亥の子”の歌もそらで歌える。じゃあコレは―――何だ!?」

 全く解決できなかった。僕はパニックになりながら叫び続ける。

 「えーい! こんな胡散臭いモノは置いておけないっ! そもそもこの部屋は女人禁制だっつーの!」

 おかしなテンションで不測の事態を乗り越えることにした。そうでもしないと頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。僕は網戸を開け放ち、

 「グッバイ、メリーさん!!」

 西洋人形の腹を鷲掴み、遠くへブン投げようと振りかぶったが―――

 「…………あ」

 ある事に気付いてしまった。その人形は良く見ると服だけではなく、顔や髪まで汚れていることに。

 一度、それに気付くと様々な事に眼が行く。服はボロボロで、元は見事であったレースの刺繍は破けてしまって垂れ下がり、所々切り裂かれたように素肌が丸見えになっていた。

 身体のほうも白い肌に黒い汚れ、髪の毛にはガムがこびり付き、女の子としての尊厳は見るも無残に打ち砕かれている。何よりも、その薄汚れた顔には何故か涙の跡がクッキリと残されていた。

 この子はどれほど苦しみ続け、酷い目にあってきたのだろうか。持ち主に棄てられ、他の人間について行っても「気味が悪い」と棄てられ、何度帰ってきても、電話しても大切に扱ってくれる人は居ない。彼女は、誰にも護ってもらえなかったのだ。

 そう、考えてしまった。一度脳裏をよぎってしまったその考えは、僕の行動を変えるには十分過ぎるほどだった。

 僕なら、この子を助けてあげられるのではないだろうか?

 僕なら、この子を必要としてあげられるのではないだろうか?

 僕なら、この子を護ってあげられるのではないだろうか?


 そう思ったなら―――そう行動すべきだ。


 そのまま僕は人形を胸の中へ掻き抱き、強く抱擁する。こうすることがこの時、一番正しいと思ったからだ。

 「もう、大丈夫だ」

 他にも伝えるべき言葉はあるような気もしたが、咄嗟だと何も思いつかなかった。だから言葉の代わりに、せめて強く抱きしめることにした。

 ひとしきり抱きしめ終わったら、顔の汚れや破けている服を出来る限り綺麗にしてあげる事にした。

 失礼ながらも服を脱がせ、裸の身体をすみずみまで布で磨く。力を込め過ぎないように丁寧に。一つの塵も残さぬように丁寧に。

 一人暮らしであることが幸いした。僕は自分の服の修繕などをしていたため、裁縫は得意だ。本当は洗濯してあげたかったのだが、今のこの服の状態だと只の布切れに戻ってしまいそうな気がした。だからせめて、今は目立つ傷だけ塞ぐ事に終始した。

 「―――よし、これで良いかな?」

 真夏の深夜、しがない男が汗まみれになりながら人形の服を直しているというのは酷くシュールなものだったに違いない。しかし、その恥と苦労の甲斐あって見られる程度の物になった。

 「じゃあ、失礼するよ」 

 一応、女の子だったのでバスタオルに包まっていて貰った裸のメリーさん。謝ってから取り出し、修繕した服を着せる。そうすると―――

 「綺麗だな……」

 僕の想像よりも美しいメリーさんが、そこには居た。

 薄く紅さした頬。磨かれて更に白さを増した肌。ガラス玉の瞳は曇り一つ無く、滑らかに光を反射する。その顔は上品に微笑んだものであり、少し傾けた首が妖しい色気を醸し出していた。

 直った服も、やはり元は立派なものだったようだ。それは……そう、『不思議の国のアリス』が着ているようなシンプルな原型に、様々な刺繍とアクセサリー。何よりも眼を引くのは背中に帯で出来た大きなリボンが付いていることだ。その白い大きなリボンが、幾分派手なレースを見事にまとめていた。

 テーブルの上に座っているメリーさんと対峙していた僕は、その美しさに溜息をついていた。

 「さて、僕も寝ようかな。明日はとっとと論文まとめないと……」

 溜息は欠伸へ、満足感は倦怠感へ。心が満たされ、電気を消して布団へ戻る。

 次こそグッスリ眠れそうだ、と暗い部屋でまどろんでいると、突然携帯電話がけたたましく鳴った。そのベルの喧しさに、番号もロクに確認しないで通話ボタンを押すと、

 「―――私、メリーさん。…………………………どうも、ありがとう」

 言葉尻、声は小さくなるも感謝を述べると、電話は一方的に切られた。

 やおら起き出し、テーブルの上へ目をやる。そこには先ほどと変わらずちょこんと座っているメリーさんが。暗闇の中、こちらを見つめるその顔は何となくはにかんでいるように見えた。



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