妖異恋
世界は混迷のさなかにあった。それでも人々は日々の糧を得る為に心の中に不安を抱きながらも各々、日々の仕事に自身の目を戻すのであった。
一、協奏
アレス=ファーン、ファーンという地方に属するアレスという名の人間という意味である。姓が人の血脈などを細々と表すようになるまでには、まだしばらくの間があった。それまでの間、人間が自分達のことを好んで肌の色、瞳の色、姓で細々と区分するようになるまで、姓はその人がどの共同体に属しているのかのちょっとした基準にしかすぎなかった。
漁師としては女性的な脆ささえ感じさせるその細身の青年は一日の漁をようやっと終えて一人、浜辺の小高い岩の上で波の打ち寄せる様をそっと見つめていた。
一つの太陽が沈み二つの青と緑の月が水面を照らし出して、しばしの時、その海の姿が青年の心を幻想で満たし始めた頃、青年は懐から横笛をそっと取り出してその幻想で世界を満たそうとするかのように調べを紡ぎだした。
しばらくの間、景色と青年との協奏がその場所を満たしさらに彼らの音が世界へと向かって広がろうとしたその時、異変は起こった。彼の心を新しい音の幸福が包んだのだった。
永遠のような短い時が過ぎ、彼と風景との協奏が終わった時、青年を包んだ新たな音はその世界のどこにも流れてはいなかった。
青年は不思議に思ったが、自分の持つ横笛を見て一人頷いた。ドワーフの手になる物に不思議はつきものだった。
二、密会
青年と音との密会は続いた。新たなる音との魂のふれあいは彼を至福へと誘った。
出会いは七日目に起こった。青年を包み込んでいた音が中途で途切れたのだった。代わりに女性のうめき声、普段なら気づかぬような微かなその声に鋭く研ぎ澄まされた彼の聴覚が反応した。青年は声のした方へと駆け出した。すると、彼の腰掛けていた岩の後ろ、木の陰に隠された岩棚の中に彼女はいた。
上半身は人間、下半身は魚という美しくも異形のものを青年は恐れはしなかった。妖精や精霊を一度も見たことがなかったためではない。青年は一瞬で理解したのだ、彼を包み込んだ至福が彼女であったことを、彼女も同じだった。いたずらが見つかった子供のような顔ではにかんだ笑みを返しただけだった。
ローレライと名乗った彼女は、今傷ついていた。普通の人間だったなら死んでいるであろう大きな傷は、彼女のような幻獣でさえも程度の差こそあれ確実に彼女を死へと誘っていた。
音の中で出会い、交わり、恋し合う二人が初めてその相手と見つめ合ったとき、すでに死という名の別れが二人の側らにあった。人魚の苦鳴は微かではあったが青年の心には何よりも重く響いた。
その苦鳴を意志の力で押さえつけ彼女は青年に歌の中で死にたいと告げた。青年は頷き、彼女を自分がさっきまでいたその場所に腰掛けさせた。二度目の調べは彼女から始まった。それは命の賛歌であり、死にたくない、彼の前からこのまま去りたくないという哀切な願いであった。歌と調べの中で二人は交わっていった。
そして今まさに生と死に分かたれようとする二人の間に奇跡は起こった。歌い終え見つめ合う二人の間に、呪文としか思えないような調べが二人の間を流れた。その彼の"生命の笛"の音が彼女の傷をほんの少し癒した、しかしそれでも、彼女にはそれでも十分であった。死の間際から重体にまで呼び戻されたのである。それでも彼女の命はいささか死の方に傾いてはいたが、彼女は生きたいと切に願っていた。そしてそれが彼女をこの世界に引き止めた。
そして一週間の後、彼女の体は癒され、二人は強く惹かれあった。
三、タニア
タニア、という名の娘がいた。美しいと言われる程ではないが、彼女が笑うだけで安らぎがその場に満ちるようなそんな魅力をもった娘だった。彼女はアレスの姉だった。血は繋がっていないが、この時代身よりのない者同士が互いに身を寄せあって生きていくのは当たり前の事だった、それが男と女あったとしても不思議はなかった。
その日、アレスが一人の女性を連れた来た。流れるようなブロンドの髪、月に照らされた大理石の蒼の肌を持つ女性だった。二人ははにかんだようにお互いの顔を見つめあった。その様子だけで彼女は悟った。来るべき時が来た、と。その時彼女は二人を笑顔で迎えた。彼女が人間ではないと聞いても、彼らの出逢いを聞いても彼女は少し困ったような表情を浮かべただけで、彼女は二人を祝福した。
彼女はアレスの事が好きだった。その感情に彼女が気づいたのはつい最近の事だった。姉弟として育ってきたアレスの事を一人の男性として意識していると気づいたのはつい最近の事だった。しかし彼女には勝算があった。それは二人が紡いできた時間の長さだった。そしてもう一つ、自分達と異質な者達と恋がうまくいくわけがないということだった。だから彼女は彼の幸せそうな顔を祝福の眼差しで見つめた、彼女と彼の距離を縮めるためにはきっかけが必要だった。ローレライと名乗った女性はそのためのきっかけになってくれるはずだった。だからこそ彼女は二人を祝福した。
四、崩壊
事件は起こった。しかしそれは彼女の望む形ではなかった。ローレライという女性はその歌声でアレスのために魚を呼び寄せた。それがアレスの所に住み着いた彼女の仕業であると知られたが、漁村に住む者達は彼女を受け入れた。漁村に住む者にとって彼女のその能力は彼らの生死を別かつ程にありがたいものだった。
今の時代の"人間"は彼女達、|亜人間(デミ=ヒューマン)と抗争状態にはあったが、彼女の歌声とその美貌はアレスだけではなく彼の村にいる全ての人々を魅了していった。それには彼女が幻獣と呼ばれる存在とはいえ彼らが思い描いていたようなきわめて人間離れした姿をしているのではなく極めて人間に近い姿だというのが役にたった。
*
タニアは久方ぶりに竪琴をつま弾いた、アレスが以前使っていたものだ。アレスの腕前に惚れ込んだ一人のドワーフが今の横笛を造るまで彼が手にしていたものだ。竪琴は吟遊詩人と呼ばれる者が好んで使う。そのための需要が多いため比較的安価な値で取り引きされる、が彼女達にとってはやはり高価なものだった。アレスが笛を手に入れてからというもの彼女は彼の為にその竪琴を練習した。彼が音の世界で自分と喜びを分かち合える人のいない寂しさを臭わせていたからだった。そして確かに彼女は彼にあわせてなんとかその竪琴を弾けるまでになった。しかし二人の音色には決定的な差があった。努力をすれば誰でもある程度の域には達するだろう。しかし努力をしても越えられない最後の一線がある。人はそれを天賦の才という。彼女が上手くなればなるほど逆にアレスの哀しみは深くなるようだった。それは自分と同じ世界を共に見れる者がいないという深い孤独にも似た哀しみだった。そして彼女は竪琴をつま弾くのをやめ。自然とアレスは彼女のいないところで調べを奏でるようになった。
彼女はそっと自分の顔を水鏡に映しそして自分の手をさわった、皮膚はざらざらというよりも固い木の肌のようでその手には網を引くために何度も破けて固まってしまったタコがある、網をひく為の手であった。いままでそれを醜いと思った事もなかった漁村の娘達は自分と同じような手をしていたし、彼女にとってその手は誇りのようなものであった。しかしローレライと名乗った彼女の手は繊細でなめらかな手であった、彼女は初めて自分の手を恥じた。そして今日彼女は一つの決心をした、膨れ上がる嫉妬心をアレスの為だと繰り返し心の中に言い聞かせて押さえつけた。そうしないと余りにも自分が惨めでやりきれなかった。それよりも彼にとって自分という存在が必要ない者だと言われることがなによりも恐ろしかった。
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幸せはこのまま永遠に続くかのように思われた。もし二人が同じ種族でさえあればこの後に起こる悲劇は回避されたかもしれない。二人の恋はありふれた一つの恋の物語で終わっていたのかもしれない。
崩壊の始まりはほんのささいなことだった。誰かに注がれる視線のその全てが暖かいものでないことはどこにでもある情景の一つであった。しかしその視線が静かに行動を起こした時、崩壊への道は始まった。
ある日この村から働きの手の中心となる青年と娘達が消えた。それはローレライと名乗る幻獣に漁の全てを任せきり怠惰になってしまった村の大人達に愛想を尽かしての行動だったが、真実は伝わらなかった。代わりに伝わったのは偽りの囁きであった。その囁きは幻獣が生きていく為に人間の生命を必要とするというものだった。
それだけで、ただ、それだけで十分だった。人間の間にはそれだけで爆発するだけの火種があそれは自分より優れた者異質な者を認めない感覚であった、そしてそれこそが人間というものが”ヒト”でなくなった原因でもあった。そしてその感情は今自分達に利益をもたらしてくれる者にも向けられた。彼らは安穏な生活に対して何の代償も支払わなくてすむはずがないという当たり前のことに気づかずに彼らは幸福は自分達の行いのせい、災厄を招く者は全て自分達以外の者とした。
そして彼らの蜜月は終わりを告げた。
誤算だった。彼らはローレライとそしてこの村に一人残った青年を取り囲んだ。そして今にも二人はこの村の大人達によって私刑にされようとしていた。ローレライはこの村の若い命を奪った者として青年は災厄をこの村に呼び込んだ者として。彼らは弁明した。彼らの無罪は真実であったが、それを信じるたのは彼ら二人と真実を知る娘の三人だけであった。ローレライは歌を歌ったが彼らの心を和らげることはできなかった。村は彼女のおかげで裕福になっていた、その金で彼らは彼女に対抗できるだけの術士を雇いその術は効果を発揮した。アレスは彼女が村のためにどれほど貢献したかを、彼女の無罪を主張したが魔物に魅入られたものと思われている彼の言葉はどれほどの真実を含んでいようと聞き入れられなかった。青年は彼らから魔物と呼ばれる女性のその手をとって初めて戦う構えを見せた。そしてそれが引き金となった。彼らはほんの少し自分達の村の仲間をその手に掛けることに躊躇したようであったがその迷いもほんの僅かな出来事だった。
彼は彼女、タニアの方を一度も見ようとしなかった。彼女を巻き込まないようにという彼なりの配慮であったのだが、彼女はそれが辛かった、自分より最後のよすがに自分以外の女性を選んだと思うのだと涙が止まらなかった。
自分の愛しい男の名を呼んだのは自分であったかそれとも彼女の方であったか、気がつくと自分の愛しい男は銛に刺されて死の淵にあった。彼が最後に呼んだのは彼女の名ではなかった。彼は愛しい女性を守って息絶えた。力を封じられた魔物はもともと力を持っていた以上にか弱い存在にすぎない、かれはそれでも魔物として多くの武器を向けられる彼女を守って死んだ。
その後に響いた昏い呪詛の呟き、それが彼女が耳にした最後の言葉となった。後は体を震わすような低い唸り、そして彼女の視界は深い海の碧の中に埋もれていった。
これはヴァルキュリア −戦いの女神の住まいし世界− サブタイトル −”世界”のチェスゲーム−という名前のRPGの世界を創るために書かれたシナリオの一部を小説化したものです。私が小説を書くきっかけになったものですので、こうやってほんの少しでも陽の目をみさせてあげたいという親心です。