第2章 (9)
分らない事が怖い。
当たり前だけれど、当たり前ではない。
だって地球にいた頃は、自分が生きる意味なんて考えたことすらなかった。
誰もが同じように、ただ生き、死んで行く。
生きる意味を明確にもって生きていた人もいたのかもしれないけれど、私を含め、多くの人がただ生きるために生きていただけだったように思う。
勿論、その生で何を成すか、というのは別の話だ。
その生の意味も目的も、自分で決めていくものであって、誰かが、少なくとも神というような得体の知れない何かに求められて事を成すわけではなかった筈だ。
「それは、地球を含むあの世界がもはや神の手を離れた場所だからだ。」
世界が世界として成り立ったら、神はその手を離す。
アカシェはそう言った。
それが本当なのかどうか走らないけれど、私はそういう世界で生まれ育った人間だった。
前世ですら、生まれこそ異世界であっても、生きてそして死んだのは地球だった。
生きる意味を背負わされる生なんて私は欲しくなかった。
役目なんて、どうでも良い、今でもそう思う。
だけど、どこかでホッとしている自分がいた。
自分が為すべきことを知る、それは見知らぬ世界にただ一人落とされた私に、確かに安定を齎した。
何も分らず保護されているのは気分が悪かった。
多分、私の中で一番大きな不安となっていたのは役目も知らず、何も為せず、彼らに失望され、そして捨てられることが恐かったのだ。
強い繋がりを持たなければ失う恐怖に怯える事もない、と希薄で表面的な人間関係を望み、それでも捨てられる恐怖から多くの人との繋がりを求めた。
何のことはない、自覚してみれば単純なことだった。
空になったカップに温かいお茶が注がれる。
「異なる世界へ行ってしまったことはお前にも影響を与えた。」
それは、私にだろうか。
それとも、私の前世にだろうか。
「お前はまだ生まれていなかったら、狂いこそしなかったもののそれでも、その精神に負担を強いたのは確かだ。
ただ一人、仲間から切り離されて別の世界で生まれたお前は、家族や住みなれた土地、そういったものから引き離される事に強い抵抗があるはずだ。
一人である、という事に強い不安を感じる。
ギルドに早くに所属したいと願ったのもその影響だろう。
心置けない神殿ではないどこか、それがたまたまギルドだったというだけの事だ。」
ギルドはマレビトとは深い関係が有る組織だからな、とアカシェは続ける。
確かにそうだ。
かつてマレビトが組織したものであり、今も多くのマレビトやその子孫が所属する。
国に縛られないから、他国のマレビトに会うのも容易になる。
私は、その繋がりを求めていたのだろうか。
「だが、家族に対して強い執着があった一方で、お前は人間という種に対して違和感も感じていたのだろうな。
ギルドに所属した今もその違和感、いや、不安感と置き換えた方が適切か、拭いきれてはいまい。
だからこそ、その不安感をけすために仕事に没頭した。
かつては同種から引き離され異郷にて一人寂しく生きて死に、今度は再び家族や世界から引き離されてこの地へとやって来た。
状況としては、とてもよく似ているだろう?
現状に対してお前が強い不安を抱くのは当たり前の事だ。
私は、それを解消するためにここに来たのだよ。」
「そのために、全てを話したという事ですか?」
「そうなるな。」
「どうして。」
「それについては言ったと思うが?」
「私が壊れると思ったから、ですよね。
そうではなくて、私が聞きたいのはどうして、そこまで私を気に掛けてくれるのかってことです。」
この人の言動は分からない。
私を怒らせたかと思えば、慰めのような言葉もかける。
「壊れるなら壊れるで、放置したってあなたには何の問題もないのでしょう?
それなのに――」
どうして。
「お前は聞いてばかりだな。」
呆れたように言われても仕方がない。
「何も、知らないことばかりなんです。
聞かなければ、何も分らない。」
ギルド関連の人以外とはほとんど関わってこなかったから、この人がどういう人であるのかも知らない。
今夜再会するまでは、彼と会ったことすら忘れていた。
彼という人間の背景を何一つ知らないのだ。
彼だけでなく、神族という存在に関わる事を避けていたために、神族が何であるかすら市井の人が知っていること以下しか知らないのだから推測のし様もない。
「そうだな。」
私が必要最低限以外のことはこの世界について学んでこなかった事を知っているのだろう。
彼は軽く同意すると、彼は継ぎ足したお茶を一口飲み、幾分か逡巡した末ににこう言った。
「私は神が嫌いだ。」
「私は、私たちを生み出した神が嫌いだ。
神の御子、などと呼ばれてはいるが、その実、要は彼らの意のままに動く道具として作られた、世界を動かす歯車のようなものでしかない。
それも、なければ支障をきたすが、実際にはないからといってそれほど問題がでるわけでもない小さな歯車に過ぎない。
或いはなくなっても困る事はない代えの利く一つの螺子かも知れぬ。
意のままに動く事を許されず、神の望むままに動くことしか出来ない。
ただ、神の手間を省くためだけに生み出された操り人形だ。
だから、」
だから、神々に翻弄されるお前の境遇はまるで自分のことのように思えたのだ、と自嘲気味に苦笑した。
目を見れば嘘が分る、とはよく言うが、私にはそれが本当かは分からないし、その真贋を見極める目を持っている自信はない。
けれど、このとき彼の瞳に宿っていた光は、確かに真実を語っているのだと信じるに足るものだった。
「後は、同じく神を嫌っているだろうお前となら、良い茶飲み仲間になれるかも、という思いもあったがな。」
そう、茶化すように言ったときには、もう陰りは見えなかった。
「私が神を嫌ってなかったら、どうするつもりだったんです?」
彼が一瞬の張り詰めたような空気を壊すことを願っていたように思えたので私も苦笑しながら言葉を返す。
「そうだったら、私がここに来る羽目にはなっていないさ。
なんせ、私は神を嫌う神族だからね。
そのときはツィリル辺りがここに来ていただろうよ。」
「そうならなくて良かったです。」
本心からそう思う。
ツィリルはこの国の王だ、それも堅物と有名な。
いくらなんでもそんな人とでは話にならなかっただろう。
尤も、神を恨んでさえいなければ、私はきっとこの世界にもっと早く馴染み、国王が足をほ運ぶような事態に陥ってはいなかったろうが。
どうやら私は今夜、少しばかりひねくれた性格をした茶飲み友達を手に入れたらしい。
それからいくらか砕けた調子になった彼と話しをし、愚痴を溢しあい、笑い、お茶を飲み、いくつかの月が壁の向こうに見えなくなったころ彼が言った。
「ナイルのことは、信じてやれ。」
そういえば、彼に言われてアカシェはここにきたのだったか。
「あれは、若いころにマレビトに助けられて、そのせいで幾分……いや、かなりマレビトに対して傾倒しているが、悪気があるわけではない。」
あの人の場合、悪気がないのも問題だと思うのだけれど。
悪気がなくても鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。
「あれは、心底お前の助けになりたいだけなのだ。
故に口煩くもなるし、心配もする。
まあ、ある意味で幼子をもつ親のようなものかも知れんな。
私には子がないからその気持ちは分らないが。」
「ああ、それは分らなくも無いかも。
確かに、一体あんたはどこの母親だ、って言いたくなった事はあります。」
あの苛立ちは確かに思春期に両親に、特に母に対して抱いた感情によく似ている。
「っく。
あれが母親か。
その言葉を聞けば拗ねそうなのが一人いるが、まあそれはさて置き、あれは親のようではあるが親ではない。
それは分るな?」
「当然です、あの人に育てられた覚えはありません。」
「そうではない。
あれは親のようにお前を気に掛けるが、決して盲目的にお前を保護するわけではない。」
「意味が分りません。」
「だから、ちゃんと話をしろ、と言っている。
あれはこの世界で唯一、何の利害もなくお前を助ける人間だ。
ギルドの者も親切では有るだろうが、その根底にはやがてお前から得られるだろう利益への期待がある。
マレビトは身体能力に限らず、魔法に優れたものが多いからな。
我らだとて、いつ何時神々からお前に対する命が下るか知れぬ。
だが、あれだけは違う、あれだけはお前をけして裏切らない。
名に懸けた誓約は神々でさえ覆せないのだから。」
アカシェには先程までのような茶化すような雰囲気はなく、真面目に私に言って聞かせた。
神々からの、と言うところでは少しばかり苦痛を滲ませて。
「あれはな、まだお前に何が出来て何が出来ないのか、何を知っていて何を知らないのか。
お前が何を求め何を必要としているのか、そして本当に必要なものは何で不要なものは何なのかそれを見極めることが出来ていないだけだ。
それが分れば、もっと干渉は少なくなるだろうし、お互い意思の疎通も楽になる事だろう。
いくら、外見と中身が異なっていると知っていても、お前の姿は庇護欲を掻き立てるのだ。
己が子供ではない、と言うのであればそれをただ口にするだけでなく、身をもって証明しあれに理解させなければならない。」
今までを振り返り、自分がそう行動できていただろうかと自身に問えば、答えは惨憺たるものであることは間違いなかった。
状況が状況だけに仕方がないという思いもあるが、あまりに自棄に走った言動が多かった気がする。
「そして、お前は既に一度失敗をした。
あれは何も言わずに今まで見守ってきたが、その結果としてお前は倒れた。
今後はこれまで程楽に生活できると思うなよ。」
言われて漸くそのことに思い至った。
彼が口煩く言う一方で放任に近かったのは一応は私を自分で判断が出来る大人だとちゃんと認識していてくれたからなのだと。
つまり、私は彼に自己管理が出来ない子供なのだと今回の事で思わせてしまったわけだ。
ニヤリ、とアカシェはその秀麗な顔を意地悪く歪めると楽しそうに笑った。
「お前がこれからどうするか、楽しみにしているよ。」
その台詞自体も憎たらしいが、これほどの美形となるとどんな表情を浮かべてもさまになるのも腹立たしい。
ここで癇癪を起こせば楽かもしれないし、気も晴れるかもしれないが、このひねくれた神族にまでガキ扱いされるだろうことは目に見えていた。
そうなるのが癪で、ここは我慢だ、とひたすら自分に言い聞かせたが、そうすることがより一層、相手に背伸びをしている子供のように見せていただろうことは後になって気がついた。
逆に皮肉の一つでも返せていれば良かったのだろうが。
結局、私はそのまま引きつった笑みで帰り行く彼を見送り、白み始めた空を後に部屋へと戻った。
あまりにも感情の起伏が激しすぎた一夜に精神的疲労は蓄積し、部屋に戻ったその足ですぐに寝入ってしまったのだが、実は私が抜け出している間に侍女がそのことに気付いて騒ぎになっていた事など、そのときの私には知る由もなかった。
後になってこの夜の事を思い返し、疑問点がいくつも出て出来たのだけれど、このときの私にはそこまで気を回す余裕はなく、ただ、とりあえず目が覚めたら今までのことは少しばかり謝罪しても良いかもしれない、と思いながら意識は深い眠りの淵へと沈んでいった。
それは、もう今までのような逃避のための眠りではなかった。