8章(8)
体が軽い。何だかとてもよく眠れた気がする。
しばらく微睡みの中をたゆたうが、沈んだ水底から浮かび上がるようにはっきりと目が覚めた。
はたと、昨日はナイルの話を聞きながら眠ってしまったのだったと思い出した。
せっかくナイルとマレビトの出会いについて聞こうと思っていたのに。
残念だが、またの機会を待たなければならないのだろう。それがいつになるかは分からないが。何と言うか、普通だったらあんなに素直に話をねだるなんてことは出来ない気がする……。
ーーうん、ムリだ。思い出して思わず頭を抱えてジタバタと暴れたい気分になった。ガキじゃあるまいし寝物語をねだるなんて、と自分の現在の容姿を棚にあげて思う。いや、見た目からしたところで小学生も高学年になったらそんなこと普通はしない、とまで考えて、これ以上考えるのは止めることにした。精神衛生上良くない気がする。
さて、と気持ちを切り替えるが、今は起き抜けで体調も良いし、気分も良い。かと言って、ここで勝手に起き出したらきっとこれはまた怒られる状況と思う。昨日の雰囲気からすれば、おとなしくエメラ姉さんか誰かが来るのを待つのが正解と思う。
「マイラ」
手持ち無沙汰になって、そう呼んでみれば、どこからともなく柔らかな羽毛に包まれた長い姿態が現れた。この、精霊が顕現する瞬間というのは何度見ても面白い。何もなかった空間に何かが現れるというのは本当に不思議な気持ちになる。
マイラは完全に姿を表すと、視線を会わせ、そして頬にすり寄ってきた。うん、とても可愛い。朝日の中で見るとその毛並みはただの白一色ではなく、動く度に色を変える遊色の羽毛だと分かった。その目は、ちゃん契約をしたからなのか、それとも日によって色を変えるのか、今は彩やかな碧色だ。私の半身、竜の記憶宿した精霊。
昨日までの夢の中で見たあの光景は、ただの夢なんかではなく、こことは違う別の世界での、そしてこの世界で、実際に過去にあった出来事なのだと何故か確信できた。
そういえば、今朝は何の夢も見なかった。夢も見ないほど深い眠りに落ちていたのだろうか?
アカシェもナイルもゆっくり休めと言っていた。それだけ、色々なことで疲弊していたのかもしれない。
「ああ、でも……どうしよう、マイラ。これ、きっとまたみんなに心配かけたってやつじゃない?」
マイラにそう溢すも、可愛く首を傾げるだけだ。ああ、もう、本当可愛いな。精霊は言葉を持たない。少なくとも話が出来るようなのは水精アトルディアのような人の姿も併せ持つ強大な存在だけだ。でも、別に返事を欲しているわけでもない。これはただの愚痴だ。抱き枕のようにマイラを抱き締めてその柔らかな羽毛に顔を埋める。
「これ、きっと学校行ける頃には皆心配してるよ。なんて言い訳しよう」
新学期が始まってから通ったのは初日だけで、すぐに休んで既に1週間が経過している。そして、多分だがもう1週間くらいはナイルは外出を禁じるに違いないと確信が持てる。多分、ギルドにも学校にも連絡が行っているけど、詳細が職員から先に広まることはどちらもないと思う。つまり、私が心配かけたくないなあと思っている友人たちには伝わっていない可能性の方が高いのだ。
せっかく休みが終わって、ユーリグへの隠し事という憂いもなくなって、これからまた学校生活を楽しもうと思っていたのに。
「どうしたら良いんだろうね?」
この世界には携帯もなければパソコンもネットもない。だからメールも電話もない。離れた相手と即時的に自由に連絡を取り合う手段がないということがこんなにも不便とは思わなかった。手紙という手段がないわけではないけれど、そのことで誰かの手を煩わせるのも嫌だった。これがギルドの仕事なら多分、迷わず連絡をいれていた。あるいは遠方の人への手紙で、自分でギルドへ依頼に行くのなら迷わない。だけど、私的なことで、数日もあれば解決する些細な問題と思うと躊躇いがあった。
何が解決するというわけでもないが、マイラを抱き締めながらベッドをゴロゴロしていると不思議と安心できた。まあ、どうにかなるさ、と楽観的な気分もわいてくる。気にしたってしょうがないことを気にし続けるのは時間の無駄だ、と割りきることにした。
悩んでも仕方のないことで時間を使うくらいなら、休み明けにどう話をするか考えた方が建設的だ。
「じゃあ、マイア。あんまり皆に心配かけずにすみそうな言い訳を考えていこう!」
前向きなんだか後ろ向きなんだか分からない提案にもマイアは何も言わず付き合ってくれた。
本当、うちの子マジ可愛い。
そんな感じで適当に、真面目に考え事をしていると、やや控えめな音で寝室のドアが叩かれた。
返事をし、誰何するとやはり予想していたようにエメラさんだった。
入室を許可すると、心配そうな表情の中にも安堵を浮かべたエメラさんが、食事と共に入室してきた。
どうやらやはり、部屋から出ずに、ここで食事をとってよく休め、ということなのだろう。
ナイルのこういうやり方にも大分なれてきたように思う。当初は押し付けがましいと感じたこういうところも、案外慣れるものらしい。
「おはようございます、エメラ姉さん。またご心配をお掛けしましてすみません。」
先日とは違い、声もしっかり出るようになったことに安心したのか、エメラさんの表情が緩む。
「回復したようで何よりです。いつ目覚めるかと心配していましたが、ようやくこれで安心できます。」
やっぱり、かなり心配をかけていたことを思うと申し訳ない気持ちがわいてくる。
そんな私の感情に反応したのか、慰めなのかマイラが頬にすり寄ってくる。
「無事に名付けが出来たのね、良かった」
と、そんなマイアの様子を見ながらエメラさんは微笑みを深める。
契約を結んだ精霊と、そうでない精霊には何か違いがあるのだろうか?
私は契約者だからなのか何なのか、以前との違いがあまりよく分からない。
蛇擬きと呼んでいたときも、姿を表していたときはこんなものだったように思う。
まあ確かに多少の色の変化はあったと思うが、それを見ただけで契約精霊か否かということがすぐに分かるものなのだろうか?
そう尋ねてみれば、存在感が違うのだという。
この世界に契約者という軛があるこで、確かな繋がりが出来、その姿は安定したものになるのだという。
もちろん、水竜アトルディアのように契約しなくとも安定している尋常ではない存在というものもないではないが、通常の精霊は契約者の有無が一と目でわかるくらいには違いがあるそうだ。
それは精霊を見る目がなくても分かるくらいの違いなのだという。
「まあ、知らない人には分からないくらいの差ですけど、ある程度の訓練を積んだ人間にはわかりますよ。全くの一般人であったり、初等学校の学生位だとまだ分からないと思いますけど。少なくとも、神殿や離宮、ギルドの人間はわかります。」
説明を聞きながら、エメラさんに促されてベッドを降り、部屋着に着替える。こうやってお世話されることにも慣れてしまった。果たして独り暮らしを遅れるようになるのか、正直不安を覚えるこの頃だ。
隣室に移るとテーブルには食事が用意されていた。
「さあ、説明はこの辺りまで。詳しい話は学校やギルドで学んでくださいませ。1週間も寝ていたのですもの、お腹が空いているでしょう?固形物は受け付けないでしょうから、まずはスープを召し上がれ」
テーブルでは細かく刻まれた具の入ったとろみのついたスープが湯気をあげている。
匂いにつられて、思い出したように存在を主張し始めた胃の欲求に応えるために、スプーンに手を伸ばした。