第7章
そう、名を呼んで見れば、嬉しそうに彼女は微笑みを浮かべた。
アトルディア、私が名乗らせてもらっていた名前だけれど、最近では漸く馴染んできてもいたのだけれど、こうして呼んでみてよく分かる。
これは、確かにこの強大な存在の為の名前なのだと。
彼女を指し示すとき名は意味を持ち、力を持つ。
もしかしたらその名前自体が魔法にでもなりそうな。
その名を呼んだ自分の声が、濃密な水の気配を纏ったのが分かった。
これが、原初の精霊――水の主。
「アトルディア。」
静寂の中に、私の声だけが波紋を描いた。
その存在感とは裏腹に優しく微笑む、実体を伴わない巨大な異形の美女は、すっぽりと私を包み込んでしまえそうなその手のほんの指先で、その巨体からは想像も出来ないくらい繊細なしぐさで私の頭を撫でた。
直接何かに触れられた、という感じではない、例えるなら下敷きに溜め込んだ静電気の微妙な抵抗感のような、二つの磁石の同じ極同士での反発のような、そんな触れているのだけれど触れていないような不可思議な感触が一、二度、頭の上を前後したような感じだった。
この人と一緒にいた時のことなど人の言葉で聞いただけで全く覚えていないというのに、その微笑が無性に懐かしく、ここにいるのが彼女の実体ではないのが寂しく感じられた。
今はこのまま、一緒にいる訳にはいかないと、それはよく分かっていたから。
彼女も、そう思ってくれていたのかもしれない。
どこか離れがたそうに、けれど、そうもしていられないことを彼女は分かっているようだった。
空気が、変わろうとしていた。
彼女は私なんかよりもっとそのことを敏感に感じていたのだろう。
“歌って、私達はいつもそこに在る”
名残惜しげに、寂しげな微笑を浮かべて彼女は北へ去った。
私達も向かっていた離宮のほうへと。
「待って――」
翻る尾鰭に手を伸ばし、呼び止めようとした私を引き止めたのは――。
「タキっ」
切羽詰ったような、私を呼ぶ声に、静寂が破れ、音が返ってきた。
私の手を掴むその熱に、夏の夜の暑い空気を思い出した。
「ナイ、ル……」
まるで、白昼夢でも見ていたかのようだ。
先程までの静謐というって変わり、それはざわめきが満ちるそこはまるでいつもの雑踏の様でもあった。
彼女との邂逅は、まるで一瞬のようでもあって、けれど、私達とその周囲の人々をおいて、既に遠く離れた列を見やると思っていた以上に時間が過ぎていたのだと分かった。
「行きましょう、祭りの夜も、間もなく終わりです。」
ぎっと、車が回る音が鳴った。
わたし達が行列に追いつく頃には、もう離宮は目の前だった。
アトルディアの出現に立ち止まっていたのは、わたし達の前方数メートルの人たちまでだったようで、先を行っていた人々は、神殿を出たときと変わらぬ様子を保ったまま、わたし達が遅れていることにすら、もしかしたら気付いていないのかもしれなかった。
逆に、アトルディアを見てしまった人たちは、どこか心ここにあらずといった風情で、アレがこの祭りの夜に置いても非日常的な出来事であったことを私に教えてくれた。
2011/12/31 一部修正。