第7章
それにしても意外や意外。
ハルディアさんが神殿やギルドでも教えるほど精霊術が得意な人だったなんて。
いや、むしろ意外でも何でもないのかもしれない。
私が精霊術を誰に学ぶかで、そういえば、とハルディアさんの名前を出した時、すぐにナイルは先方の都合が合えばそれも良いと言ったのだ。
あの時は全く気にもとめなかったけれど、つまりそれは、ナイルもハルディアさんの腕を知っていたということなのだから。
でも、こんなに穏やかなハルディアさんがまさか此処まで恐れられている人だとは思いも寄らなかった。
てっきり小学校の恐ーい先生くらいのイメージでいたのに。
もっとも、私は叱られたことがないから想像も付かないのだけれど。
イドゥンさんとフィズさんはお茶の最中も始終畏まったままで、お茶を飲み干すとすぐさまそそくさとその場を立ち去ってしまった。
せっかくおいしいお茶菓子もあるのにもったいない。
二人が去った後、私たちはお茶菓子を食べつつお茶をゆっくりと楽しんでから、精霊術の講習は再開した。
精霊術、別名精霊魔法とも言うそれはハルディアさんの言葉を借りるなら「術と呼ぶのもおこがましい」モノということになるのだが、まあ要は好意的な精霊にお願いをして様々なことを手伝ってもらう、あるいは行ってもらうという、何というか魔法とは似て非なる他力本願な行為のことである。
魔法は十分な魔力と比較的強い意志さえ有れば、規模は兎も角として大人であれば誰にでも使うことのできるものだが、精霊術は年齢も魔力量も問わない代わりに、精霊に好かれていなければ行使できないと言う制約がある。
まあ、誰だって好きな人の頼みなら快く引き受けるが、嫌いな人の頼みはなかなか引き受けたくないものだ。
精霊の場合、その選り好みが極端で、好きな人の願いは大袈裟なまでに叶えてくれるが、嫌いな――というか寧ろ関心がないと言う方がより正確だろう――人の頼みは微塵も聞いてはくれないと言うだけの話だ。
言うことを聞いてくれないだけならばまだマシで、彼ら自身が直接嫌悪の感情を抱くことは稀だが、彼らが好意を抱いている相手の害になる、と判断したモノに対しては容赦がない。
故に、精霊に好かれた者は、自分を好いていてくれる精霊たちを御す術を学ばなければならず、それを便宜上、精霊術または精霊魔法と呼んでいるだけだったりする。
酷い例えになるが、暴走しがちなストーカーを手懐け良いように利用する方法とでも思えば良いらしい。
精霊術の前提として、精霊と交信できることが挙げられるのだが、実はこれが厄介なもので、精霊の意志を汲み、こちらの意志を伝えられるという利点だけでなく、こちらの意志や感情が勝手に精霊に伝わってしまうという面も持ち合わせているのだ。
そうなると、交信できなかったとき以上に精霊たちは暴走し易くなってしまう。
ならば、精霊に好かれたものは精霊と交信させなければ良いのではないかという考えもあるのだが、その場合、好かれた者の意志に関わらず精霊たちが勝手に判断して結局は暴走してしまうのだという。
尤も、そうなる前に精霊の加護持ちならば大抵の場合は幼少期の時点で自然と精霊を見れるようになるらしいのだが。
結論として、精霊に好かれた者が、しっかりと交信を行い、適度に手綱を締めることが最も確実であるらしい。
私の場合、“群がっている”とまで称された精霊たちが実は暴走寸前にまでなっていたということで、早急な精霊との交信の確立が求められていたらしく、精霊交流の受講が必須とされていたらしい。
なぜ“らしい”ばかりかと言えば、それも含めて、私自身が精霊と交信できるまで、ナイルがそれを押さえていてくれていたのだと、講義を修了してから初めて聞かされたからだ。
本当に初耳、寝耳に水な衝撃の事実発覚だった。
それから、私は今度は早急に精霊を御す術を学ばねばならず、祭りとその前後1週間、凡そ3週間の休みになる学校の講義の再開を待っていては間に合わない(今すぐどうこうという話ではないが、問題が起きる可能性が0ではない以上早いに越したことはない、ということらしい)ということで、教師を捜すことになったのだが、なかなか現役では適任の人物が居らず、白羽の矢が立ったのがハルディアさんだったわけだ。
因みに、ハルディアさんには神殿から正式にマレビトへの精霊術の講師として依頼し、謝礼が支払われることになっていたのだが、彼女はそれを断ったため、師弟としてではなく、今まで通りの付き合いを続けてさせてもらっている。
実践の中で精霊術を学ぶという名目で、午前と午後の畑の水遣りやハーブ類の急速乾燥、水を熱したり冷ましたり、日常の中で使える様々なことを行いつつ、座学と言うよりお茶会の続きと言った雰囲気の講義を受けていた。
だから、もともと今期の講義が修了した後の休みはギルドへ行く時間はほとんどなかったのだけれど、それでも、「立ち入り禁止」と言われるのはそれはまた別の話で、いけないのと来るなと言われるのでは何か違うというか、何とも言い難いもどかしい気持ちにさせられていたのだ。
多分、きっと、この気持ちを“寂しい”というのだろう。