「用済みだ」と道具箱を取り上げた家主へ、証文を第一条から読み上げます——三条目に、預かれぬと書いてございましたわね
【貸家の前庭】
笑い声が、石壁へぶつかって二度返ってきました。ひとつで充分ですのに。しかも二度目は壁の響きですから、笑った人数へ数えてはいけません。
「これは預かる」
ボレス様は、マリクの道具箱を腹へ抱え込んでおいででした。金具の錆びた、樫の箱。左右の角は七年ぶん、持ち上げられ、下ろされ、石場の床を擦って丸くなっています。
「店賃は二日も遅れている。働きもしない店子に、こんなものは用済みだ」
背後で身内が笑い、前庭にいた店子たちも笑いました。ボレス様の笑い声が親石なら、あとの声は隙間へ詰めた小石。壁としては最悪ですが、威張るには量が大事なのでしょう。
マリクの耳の後ろには、朝の仕事でついた白い石粉が残っていました。働きもしない者は、耳の裏だけで壁一枚ぶん働くものらしいですわね。ずいぶん器用な怠け者ですこと。
「返してください」
「おまえは黙っていろ。替えのきく徒弟が、口を挟むな」
ボレス様の腕が箱を締めました。金具が鳴り、マリクの右手も動きましたが、わたくしはその手首を押さえます。ここで奪い返せば、箱を抱えた家主と、家主へ殴りかかった乱暴な石工の出来上がり。石積みなら三日で崩れる筋書きでも、噂は妙に長持ちいたします。
「フェドラさん、あんたが立て替えるなら別だがね」
「まあ。ボレス様は、わたくしの財布にまでお部屋を貸していらしたの?」
笑いがひとつ、遅れて漏れました。誰が漏らしたかは見ません。ひびの入った石は、叩かなくてもいずれ自分から名乗ります。
わたくしは箱ではなく、ボレス様の袖口を見ました。新しい縁飾り。あれだけで鏨が四本、槌の柄が六本、麦酒粥なら大鍋が二つ。見栄というものは腹へ入らないくせに、ずいぶん材料を食います。
「店賃の話は、証文を拝見してからにいたしましょう。貸家の証文をお持ちくださいませ」
「証文だと?」
「署名なさったものです。まさか、ご自分のお名前まで預けてしまったわけではございませんでしょう?」
ボレス様の身内が顔を見合わせました。先ほどまで箱を見ていた店子たちも、今度はボレス様を見ています。笑いの目地が、ほんの少し広がりました。
「二十日後、橋の普請が引けましたらお持ちください。わたくしも、読み違いがないよう準備いたしますわ」
「好きにしろ。この箱はそれまで私が預かる」
ボレス様は箱を抱えたまま門をくぐりました。マリクは追いませんでした。ただ、丸くなった右の角が扉の向こうへ消えるまで見ていました。
「親方」
「殴らなくて結構です。あの方のお顔は建材になりませんもの」
「箱の話だ」
「わかっております」
七年で丸くなった角を、七日も使っていない腕が抱えていく。あれをボレス様のご威光で丸めたとおっしゃるなら、今度は石臼でも抱いていただきましょう。きっと三歩で音を上げます。
* * *
【十日後・石場】
借り物の鑿は、一打目から気に入りませんでした。わたくしではなく石がです。鈍い音を返し、二打目で縁を薄く欠きました。
「止めなさい」
マリクは槌を浮かせたまま止まりました。返事より先に手が止まる。そこだけなら、ボレス様のご自慢の身内を十人束ねても敵いません。
鑿を受け取り、刃先を爪でなぞります。立ちすぎています。うちの鑿は刃先を三厘寝かせて研ぐのです。たった三厘、と笑う方には、石を三厘ずつずらして家を建てて差し上げたい。冬の最中、風がどこから入るか数える楽しみが増えましてよ。
「何厘だと思います?」
「二厘立ってる」
「借りた先では?」
「木槌で割る石が多い。たぶん、その癖だ」
即答でした。長い挨拶なら途中で迷子になるくせに、刃先の角度だけは眠っていても言えます。
「箱にあった平鑿は?」
「三厘寝かせた。丸鑿は二厘。細いのは四厘だけど、先の左を少し落としてある」
「槌は」
「小さいほうの柄を一分詰めた。大きいほうは、握りの下に革を二枚」
一つずつ、箱の中身が見えるようでした。けれどマリクは、返してくれとは言いません。言えば声が擦れるからでしょう。石粉は払えても、喉へ入った七年は簡単に出てまいりません。
「この鑿は返します」
「今日の仕事は」
「別のを借ります。わたくしの手銭で」
「親方の金だ」
「ええ、よくご存じで。わたくしの財布は痩せると口数が増すのです」
実際、組合の道具蔵から癖の近い鑿を借りれば、三日ぶんの食費が飛びます。干し肉なら九枚。麦酒なら小樽ひとつ。数えなければ平気だと思っていましたが、数えたらまるで平気ではございません。ボレス様の袖飾りが、ますます美味しそうに見えてきました。
「返ってきたら、研ぎ直す」
「どれを?」
「全部」
「何日で?」
「二日」
「寝ないおつもり?」
「親方も寝ないだろ」
借り物の鑿を包んでいた布が、わたくしの手の中で止まりました。まったく、短い返事しかできない子は困ります。こちらが積み上げた言い訳の壁を、一打で割るのですから。
「わたくしは棟梁ですから、寝ずとも育つのです」
「石か」
「石より上等ですわ」
マリクは新しく借りた鑿を握り、刃先を灯りへ傾けました。三厘には届かない。それでも今度は、欠けたところを避けて石へ当てました。
* * *
【二十日後・橋の普請】
橋脚の石が、朝から三列目で止まっていました。鑿が足りず、目地を切れる者も足りない。替えの利くはずの徒弟が借り物の刃を庇うたび、石だけが律儀に待ってくれています。
止まった普請というものは、動かないくせに金を食べます。荷車が二台、綱が三束、人足が八人。これを全部石へ換算すると腹が立ちますので、途中から麦酒へ換算したところ、もっと腹が立ちました。
「石工の替えはいくらでもいるだろう」
見物に来たボレス様が、橋の端から声を張りました。身内を二人連れ、いかにも領の普請を見分なさるお顔です。あのお顔を隅石に使えば一日で雨漏りする、とわたくしの目はすでに採点を終えています。
「道具箱が一つないくらいで止まるなら、棟梁の腕が悪いんじゃないか?」
身内が口元を押さえ、店子らしい者も肩を揺らしました。マリクは石から顔を上げません。借りた鑿を打つ音だけが、かつん、とひとつ痩せました。
「親方」
「目地は?」
「五分。奥が一分足りない」
「では、そちらを先に」
ボレス様へ言い返せば、今朝の五分が暮れには五寸へ育ちます。噂というのは石より膨らむ。便利な建材ですこと。橋には一粒も使えませんけれど。
日が落ち、人足も組合の女たちも帰ったあと、わたくしは灯りをひとつ橋脚へ下げました。昼に据えられなかった石を外し、縄を張り直し、濡れた面を測ります。夜露で数字が滲むたび、袖で拭いてもう一度。石は文句を言いませんが、重いものは重い。そこに品格はございません。
マリクの足音が一度、坂の上で止まりました。振り向いたときには誰もいません。代わりに、わたくしの道具袋の脇へ油紙が置かれていました。中身は冷えた干し肉が二枚。硬さは薄い敷石級、塩気は海ひとつぶん。歯を一本持っていかれそうです。
夜半までに、石は朝から組み直せる位置へ揃いました。目地の幅を記した木札を立て、灯りを消すころには、干し肉の二枚目もどうにか半分まで減っていました。石場は腹の減る場所です。誇りでは噛めません。
翌朝、最初に来た組合の女が、並び直した石と泥だらけのわたくしの裾を交互に見ました。次に来た女も同じ。三人目は何も聞かず、橋脚へ手を当てました。
「棟梁、これ、夜に動いたのかい」
「石が自分で歩くなら、賃金を半分にできますのにね」
「目の下が真っ黒だよ」
「目地は白うございます。そちらをご覧なさいな」
女たちは鼻を鳴らし、持ち場へ散りました。マリクだけが、油紙の中に残った半枚を見ました。
「硬かったか」
「上等でしたわ。橋の補強にも使えそうです」
「食ったのか」
「食べ物でしたの?」
マリクは、ごく短く笑いました。わたくしは目地を指し、仕事へ戻します。笑う暇があるなら石を運べ。笑わないなら、なおさら運べ。橋はどちらでも待っております。
* * *
【その夜・家主の広間】
ボレス様の広間には、石場の一月ぶんほど蝋燭が灯っていました。壁の飾り布で鑿が五本、銀の燭台で槌が三本。床石の目地は不揃い。お金をかけて欠点を照らすとは、ずいぶん豪胆なご趣味です。
長卓の向こうにはボレス様、その左右に身内と店子たち。例の道具箱はありませんでした。わたくしが扉の脇へ一度目をやると、ボレス様の口角が上がります。
「箱を捜しているのか? 店賃を払えば考えてやる」
「本日は、取り返しに参ったのではございません」
わたくしは道具袋から一本の鑿を出しました。自分で使い、自分で研ぎ、柄を二度替えたもの。それを長卓の中央へ置くと、金属の音が笑い声の間をまっすぐ切りました。
「では何をしに来た」
「お約束どおり、証文を拝見しに」
ボレス様は鼻で笑い、折り畳んだ証文を卓へ投げました。署名のある側を上にして。ご自分のお名前が印章より立派に見える角度を選んだのでしょう。見栄の据え方だけは目地ひとつ狂いません。
わたくしは証文を受け取り、ゆっくり開きました。身内の一人が「字は読めるのか」と呟き、左右で含み笑いが繋がります。石壁なら今ごろ崩れておりますわね、この連結。
「第一条から読み上げてもよろしゅうございますね」
「勝手にしろ」
「第一条。店賃の支払いが期日を過ぎた場合、家主は店子へその旨を告げ、三日の猶予を置く」
店子たちの端で、誰かが指を二本立てました。二日。すぐに手は下りましたが、ボレス様は見たらしく、椅子の肘掛けを叩きます。
「遅れたことに違いはない!」
「ええ。ですから第一条は、三日と申しております」
「次を読め」
声はまだ太い。けれど先ほどより、槌の柄一本ぶん短くなりました。
「第二条。猶予を過ぎても支払いのない場合、家主は未払いに相当する家財を預かり、裁定を待つことができる」
「ほら見ろ!」
ボレス様が卓を叩き、身内の笑いが戻りました。今度は大きい。第二条までで宴を始められるとは、皆様ずいぶん胃が丈夫ですこと。三皿目がまだ運ばれておりませんのに。
わたくしは証文から手を離しませんでした。卓の中央の鑿へ目を落とします。刃先は三厘寝ている。灯りを細く返すその一本を、石にも、麦酒にも、手銭にも換えませんでした。
「わたくしはこの一本に、七年、この子の手を預けてまいりました」
広間の端に立つマリクは、何も言いません。耳の後ろに、今日も石粉が残っていました。
わたくしは証文を閉じず、第三条のところで向きを変えました。紙をボレス様の前へ滑らせます。
「第三条は、ボレス様がお読みになりますか」
「なぜ私が」
「ご署名のすぐ上ですもの。わたくしの読み違いではいけませんでしょう?」
ボレス様は身内を見ました。身内は笑ったままです。店子たちも、次の合図を待っています。
ボレス様は証文を引き寄せました。
「第三条……家財とは、寝台、卓、椅子、衣装、食器、その他暮らしに用いる品をいう」
声が一度止まりました。親指が紙の下へ滑り、署名の半分を隠します。
「続きがございますわ」
「細かい文言だ」
「では、なおさら丁寧に」
ボレス様の喉が動きました。
「生業の道具は……」
身内の笑いが、ひとつ消えました。
「これに含まず」
残りも消えました。
長卓の左右で、店子たちの目がボレス様からマリクへ移りました。借り物の刃を庇いながら橋を刻んでいた手。箱の中の一本ずつ、その角度を言える手。そこから、替え、という値札が剥がれて落ちます。
まあ、よい音。石が割れたのではなく、見栄の薄皮が一枚、きれいに剥がれましたわ。
* * *
【一月後・裁定の場】
裁定の卓には、燭台も飾り布もありませんでした。証文、印泥、秤、椅子が四脚。それだけです。余計なものがない部屋では、余計な言葉ほどよく響きます。
タデウシュ裁定人は証文の第三条へ指を置きました。ボレス様は襟を正し、広間では足りなかった敬語を、今になって継ぎ足しています。
「その、裁定人殿にはご理解いただけると思いますが、店賃の保全として一時的に、やむなく——」
「第三条は読めました。次は、返せない理由を」
ボレス様の言葉が止まりました。タデウシュ裁定人の指は第三条から動きません。短い。石場なら一打。よい腕です。
「返せないとは申しておりません」
「箱を出しなさい」
「本日は、その、保管場所の都合が」
「箱を出しなさい」
ボレス様はわたくしを見ました。前庭ではあれほど太かった肩が、裁定の卓を挟むと半分ほどに見えます。石は小さくなりませんから、見栄が抜けたのでしょう。
「フェドラさんからも、少し猶予をと——」
わたくしは卓の鑿を見ました。広間へ置いた、あの一本です。口は挟みません。猶予を決めるのはわたくしではなく、返す箱を流したのもわたくしではございません。
「ボレス・ダルム。箱はどこにある」
「……質へ」
「いつ」
「広間で証文を読ませる、前だ」
「中の道具も」
「まとめてだ。石工の古道具など、たいした値にはならなかった」
マリクの手が、膝の上で一度だけ閉じました。タデウシュ裁定人は証文の脇へ、返還不能と記しました。
「あれは、俺が七年かけて寝かせた刃です」
声は大きくありませんでした。それでもボレス様は、広間で第三条を読んだときより深く顎を引きました。
「差し押さえは無効。返還不能のため、道具の評価額に過料を加える。支払いなさい」
「今ここで、ですか」
「今ここで」
ボレス様は懐から鍵を出し、従者に持たせていた金袋を卓へ置きました。タデウシュ裁定人が秤へ載せ、不足を告げます。指輪がひとつ外され、次に腰帯の銀飾りも外されました。受領の印が押されるまで、ボレス様の手は卓の縁を掴んだままでした。
「家主として結んだ約束を破った記録は、組合へ送る。退席を」
「待ってください、今後の貸家の修繕や石工の手配が——」
「退席を」
扉が開きました。ボレス様は振り返りましたが、誰も言葉を足しません。銀飾りのなくなった腰帯を押さえ、そのまま部屋を出ていきました。
わたくしは卓の鑿を取り、マリクへ柄を向けました。
「これは貸します」
「返すのか」
「研いでから」
「何厘に」
「それを、わたくしに尋ねますの?」
三厘、とマリクは答えず、刃先を指で確かめました。古い箱は戻りません。だからといって、七年まで質札の向こうへ渡すものですか。
* * *
【冬・領の石場】
最初に閉じたのは、貸家の東端の窓でした。雨漏りした庇へ板が打たれましたが、石工の補修は入らず、風が板を三日で浮かせました。四日目には、そこへ住んでいた店子が荷車へ寝台を載せて門を出ました。
次に、中庭から洗濯物が消えました。井戸脇に積まれていた子どもの木靴もなくなり、空いた部屋の札が二枚、三枚と門へ増えました。追従して笑っていた顔も荷を抱えていましたが、わたくしを見る者はいません。わたくしも数えませんでした。
最後に、門柱の上の石飾りが傾きました。ボレス様は組合へ人を寄越し、修繕を急げと伝えましたが、受ける石工はいませんでした。家主の約束を石より軽く扱う家へ、道具箱を持って入る者もいません。
(石工の道具など、どこにでも売っている——)
ボレス様は新しい鑿を買い、雇い人へ渡しました。雇い人は刃先を見て首を振り、翌朝には来ませんでした。道具は棚へ残り、人だけが戻りません。
雪の降る日、わたくしは領の石場へ向かう途中で貸家の前を通りました。荷車が一台、門を抜けるところでした。後ろへ結ばれた椅子が揺れ、脚を門柱へ一度ぶつけます。
門の内側に立つボレス様と目が合いました。謝罪も、罵声もございません。わたくしは足を止めず、石場へ向かいました。あの家の壁も、退いた店子の次の寝床も、わたくしの道具袋へ勝手に詰められては困ります。
領の石場では、雪の下から橋用の石が顔を出していました。夜に測り直した印が、薄く残っています。マリクはわたくしの鑿を三厘に寝かせ、石へ当てました。
「春まで持つか」
「石は持ちます」
「親方は」
「温かいもの次第ですわね」
組合の女たちが笑いました。今度の笑いは壁へ詰める小石ではなく、火床へ放る薪のようでした。腹は膨れませんが、少なくとも人を凍らせはいたしません。
* * *
【春・新しい石場】
春一番に届いたのは、領と組合の印が並んだ橋の普請状でした。宛名はフェドラ・カーヴェン。わたくしの名です。石二百八十、橋脚四本、工期は百日。麦酒粥に換算しようとして、途中でやめました。大鍋が領を一周しそうでしたもの。
「棟梁、押しな」
組合の女が印泥を寄せました。わたくしは普請状へ組合の印を押しました。夜に測り直した石の列が、今度はわたくしの名の下で組み上がる。印は小さいくせに、槌より重く手へ残ります。
その隣に、新しい道具箱が置かれていました。樫の板はまだ白く、角は四つとも尖っています。金具も鳴らず、蓋を開ければ新しい木の匂いがしました。
「マリク」
呼ぶと、マリクは三厘に寝かせたわたくしの鑿を持ってきました。それを新しい箱のいちばん奥へ置きます。次に、自分で刃を寝かせた新しい鑿を並べました。槌、平鑿、丸鑿。どれもまだ箱の形へ馴染んでおりません。
「印を押します」
「親方のを?」
「ええ。組合の道具箱ですから」
マリクは蓋の裏を見て、それから印を持つわたくしを見ました。
「今度は、俺の名も押してください」
「押すのは印です。名はご自分で書きなさい」
「字が曲がる」
「石の目地よりは直せます」
わたくしが蓋の裏へ印を押し、その下へ名を書きました。フェドラ・カーヴェン。墨筆を渡すと、マリクは長く息を止め、隣へ自分の名を書きました。少し右上がりで、最後の一画だけ妙に力が入っています。
箱を囲んでいた女たちが、出来たての目地を見るように覗き込みました。
「いいじゃないか。曲がったら箱を傾けな」
「橋まで傾けるんじゃないよ」
「腹が減った。名は食えないからね」
「まったくですわ!」
わたくしが大いに同意したところで、石場の門前がざわつきました。ボレス様が立っていました。冬の銀飾りは戻っておらず、外套の袖も前庭で見たものより短い。見栄を鑿へ換算する楽しみが減って、少々残念です。
「フェドラさん。話がある」
「橋の普請が始まりますので、手短に」
「貸家の門柱と東壁を直してほしい。店子も戻したい。代金は払う。今度は先に払ってもいい」
石場の女たちは口を挟みませんでした。マリクも新しい箱の蓋へ手を置いたままです。
ボレス様は一歩、門の内側へ入りました。
「過ぎたことは水に流して、仕事として受けてくれないか」
わたくしは普請状を持ち上げました。領と組合の印、その下にわたくしの名。橋の工期は百日です。人の七年を二日の店賃で預かれる方には、少し長すぎる数字かもしれません。
「第一条から読み上げてもよろしゅうございますね」
ボレス様の足が止まりました。
「いや、それは……」
「本日は橋の第一日目です。わたくしどもの道具も、人手も、すでに行き先が決まっております」
「では、橋が終わったあとで」
「そのあとの仕事も、わたくしどもが選びます」
ボレス様はマリクを見ました。もう、替えの徒弟を見る目ではありませんでした。箱の蓋の裏には二人の名があり、普請状にはひとりの棟梁の名がある。それだけです。誰も説明して差し上げませんでした。
ボレス様は門を越えず、来た道を戻っていきました。石場の女が、その背を見送ってから大鍋の蓋を開けます。
「さあ棟梁、冷めるよ!」
麦酒粥の湯気が、石粉の匂いを押しのけて広がりました。椀が二つ、わたくしとマリクの前へ押し出されます。麦の粒、刻んだ葱、少しの干し肉。しかも温かい。温かいのです! 橋の普請状より先に抱えて走りたいほどですわ。
「これですわ、石場は温みが命ですのよ。まず粥を温めましょう。橋は逃げませんもの」
「もう温かい」
「では、わたくしの椀へもう一杯」
「まだ一口も食ってない」
「先の分です」
女たちが笑い、マリクは椀をわたくしから遠ざけました。代わりに自分の椀を一口すすり、空いた手で新しい箱を引き寄せます。
尖った角は、これから丸くなるのでしょう。誰の腕で運ばれ、どの石場へ置かれ、何年かけて丸くなるのか。蓋の裏の二人の名は、もう誰にも預けません。
マリクは湯気の向こうで、新しい鑿を握りました。三厘寝た刃先が、春の光をまっすぐ返していました。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




