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期待の大型新人短編集『新人研修』

食事欲

掲載日:2026/06/19

2025年11月12日 初版

2026年6月19日 第二版

 その日、僕は出会った。みどり色のカマキリと、道端の原っぱで出会った。

 その時に僕は目覚めた。何か分からない、体から湧き上がる欲求に、僕は気づいた。



上.



 きっかけは、いつもの帰り道。

「やーい!逃げんなよぉぅ!」

 少し大人びた低めの恐ろしい声が、背後から聞こえる。僕はいつもの様に、いじめっ子達に追いかけまわされていた。

僕をいじめる動機は分からない。いつから目をつけられていたかも分からない。けれど、飽きることなく僕をターゲットにし続けてくる。そして今日も、帰り道で待ち伏せられていた。

 はあっ、はあっ、なんて息を切らしながら走る。

あの子らに捕まったら、僕は陽が落ちるまで、奴隷のように扱われてしまう。それだけは、どうしても嫌だ。だから、ひたすら走った。肉食動物から逃げる様に、走った。

 しかし、ひ弱な僕は長い間走り続けることはできない。体力はきっとそろそろ底をつき、汗まみれで喉もカラカラだ。そして耳をすませば、あの子らの声がすぐ後ろから聞こえてくる。

嫌だ!やめて、追いかけないで!

 なんとか力を振り絞って地面を蹴る。すると、声が少し遠かった。かと思えば、背後から物凄い横向きの風と、クラクションが聞こえた。焦って周りを見渡すと、いつの間に僕は赤信号を渡り、道路に出ていた。慌てて対岸の歩道に乗ると、いじめっ子たちはこっちを睨みつつ、先ほどの恐怖で足がすくんでいるようだった。

 なんとか僕は間一髪、今日は命拾いをしたらしい。早くあの子らから離れたい一心で、僕は逃げる様に、再び駆け出し始めた。


 まだ追いつかれてしまうかもしれないので、僕は遠回りをしようと思い、緑道を使って家へ帰ることにした。

通学路から外れ、街路樹が茂った緑の空間は僕の隠れ家にぴったりで、先ほどまでの恐怖を浄化してくれた。

 少しリラックスしていたら、いつの間にか道の中心を逸れ、道端の原っぱに片足を突っ込む様に歩いていた。脛に当たる草がくすぐったくて、少し足元を見た。すると、そこには生き物が二匹いた。

 いや、正確に言えば一匹。それは、一匹のカマキリだった。そしてそいつは、モンシロチョウらしき白い羽の蝶を食べていた。僕はそれが二匹に見えたのだ。

 人間以外の生き物が食事しているところなんて、滅多に見ないので、僕は不思議と興味が湧いて、カマキリを観察しようと、しゃがみ込んでみた。

 よく見ると、自分の鎌にうまく蝶の羽を挟んでいる。そして、中心の胴体にかぶりつく様に、顔を近づけて食べていた。僕は、バリボリと音がするかの様に喰らうその姿を、そのままずっと眺めていた。

 そして胴体を食べ切ったカマキリは、挟んでいた羽をヒラヒラと道へ落として、自分の鎌を掃除した後、僕のことなんて見えていないかの様に、そそくさと茂みに隠れていった。

 僕は、結局カマキリが見えなくなるまで、しゃがみっぱなしだった。怖いもの知らずで、天敵なんていないかの様な、僕と正反対のその背中を、僕は目で追いかけ続けていた。


 家に帰ると、観察と遠回りのせいで、家に帰るのが遅れてしまった。こういう時は、必ず母が叱ってくるのだが、僕はその説教が、ちっとも頭に入ってこなかった。カマキリの映像が、頭から離れなかったからだ。

 それは、ずっと、四六時中頭にこびりついていた。夕飯の時も、お風呂の時も。宿題にも、身が入らなかった。あまりに衝撃的なことだったので、珍しく日記帳を開いて、緑のクレヨンで、カマキリが蝶を食べている絵を描いてみた。どうにも、あの時のようには書けなかったが、それでも、僕は満足だった。

 もちろん、寝る前も、ベッドの中で、あのカマキリのことをぐるぐると考えていた。あの映像が、ループしていた。そのぐらい、僕には信じられない出来事だったのだ。

 僕は、あんな風に自分の食べ物を調達することなんて、できない。ましてや、きっとあの蝶は、直前までは生きていたのだ。あの時にカマキリに捕まらなければ、もっと長く生きられたはずだ。そんな命を、カマキリはなんの躊躇もなく、食べてしまった。栄養のない、羽を残して。

 そんなこと、僕にはできない。

 あんなに命を間近に感じたことはなかった。あんなに命が軽いと感じたことはなかった。

 あの姿に、さも当然かの様に喰らうあのカマキリの姿に、僕は格好いいと思った。強者にしか与えられない自由さを、僕も手に入れたいと思った。情なんて持ち合わせていない、あの生命感に、あの残酷さに、僕もああなってみたいと思ったのだ。

 と同時に、自分の内側の何かが、湧き上がってくるのを感じた。その何かは、一瞬にして頭の中から足の先まで広がっていく。

 初めての感覚だ。よく分からない。よく分からないから、湧き上がって来るものに操られるように、くねくね動くしかできなかった。

 どうしよう、どうしたら抑えられるんだろう。不思議な感覚に、なんだが怖くなって、冷や汗をかく。軋むベッドの中で、だんだん僕は体が熱くなっていくのを感じた。

 そして、あることに気がついた。股間の付近が、特に熱っぽいのだ。

 僕は直感で、この部分からせり上がってきているんだろうと認識した。そして、暴れる体を落ち着かせて、腹の下を探ってみた。

 それでも、何かが絶え間なく身体中に浸透していく。そいつのせいで、僕はいてもたってもいられなくなってしまっていた。そしてついに、腕がうねったまま、そこへと伸びていった。

 そのまま、パジャマの上からそこに手を置いて、かきむしる様に、まさぐっていった。

 不思議なことに、いじくればいじくるほど、腕の動きが激しくなる。体も連動して、またしなるように動き始める。その度に、何かが体に押し寄せる。脈打つ何かが、増えたり減ったりしている様に思えた。

 頭の中では、カマキリの映像がまだ流れていた。しかも、鎌のギザギザや細い足まで、鮮明に想像できる。

 僕は止まらなくなった。やめられなくなった。自我を保てなくなった。

 足をジタバタさせて、馬鹿みたいに、触ってみたり、撫でてみたり。もう何も考えられない。カマキリの映像に、意識が向かない。もう流れているかも分からない。

 ただただ、感じたことのない快感に溺れていた。こんなに気持ちいい事があるなんて、初めて知った。僕はいろんなことに興奮して、周りが見えていなかった。

 ガン!

 ばたつかせていた足が、壁に激突してしまった。足に激痛が走る。その痛みで、僕は冷静さを取り戻した。

 と同時に、何故か、こんな所を母に見られたくないと思った。こんなみっともない格好を見せることが、とても恥ずかしい行為に思えた。母のこんな姿を、見たことがなかったからだ。

 大きな音を立てたので、母が僕の部屋へ来るかもしれない。僕は、茂みに隠れる様に、ベッドに潜り込んだ。そのまま眠りにつこうとしたが、ベッドの中は異様なほど暑かった。あまりの暑さにイライラして、掛け布団を蹴っ飛ばす。そして、夜風にあたって涼しさを感じていたら、あまりの疲労感で、いつの間にか眠っていた。

 カマキリの映像も、そこで止まった。



下.



 あの出来事以降、突然浮かぶカマキリの映像に悶える事が、たびたび起こるようになった。そうなれば、僕はあの夜と同じように、気持ちよくなろうと腕を走らせてしまうようになった。

 やや習慣化された頃に、だんだんと、あのカマキリの映像が薄れていくのが分かった。まあ、頭で記憶するのにも限界がある。思い出そうと日記を開いてみるものの、あの日の衝撃に似た記憶は、どうやらもう二度と現れないようだ。

 そこで、僕は図書館で昆虫図鑑を借りることにした。そこには、カマキリ以外にも色々な生き物が、写真付きで載っていた。大きな顎で他の昆虫に襲いかかる蜂。集団で地道に死骸を漁る蟻。まだ生きているのに、そのまま糸を巻きつけて食べる蜘蛛。他にも、トンボだったり、外国のデカい虫とかいろいろ。

 その一つ一つが、やっぱり僕と違っていた。食べて、栄養にして、自分のものにして。その生き様が、僕と違っていた。その圧倒的な差に、僕は憧れることしかできなかった。

 その憧れは、日々悪化していき、最近はほぼ毎日、あの日の「アレ」の快感に溺れていた。そして、カマキリ以外の映像でも、「アレ」をするようになった。

 一通り昆虫図鑑で頭の映像たちをアップデートしたら、さらなる凶暴さを求めて、次は別の図鑑を借りに行く。動物図鑑に魚図鑑、両生類・は虫類図鑑…。どれもこれも、やっぱり僕の知らない野生の世界だった。待ち伏せして獲物を捉えるネコ科の動物。シャチの計算された狩り。ワニを丸呑みにする見たこともないほど大きいヘビ。

 新たな出会い、新たな快感…。図鑑をめくる日々は終わりを知らないようだった。そうして、こんな日々はいつしか趣味のようになった。誰も知らない、僕だけの趣味になった。

 そしてこの趣味は、いつしか日常生活にも侵食してきた。ある日の晩、夕食に焼き魚が出された。僕は特に意識せず食べ進めたのだが、残った残骸が異様なまでに綺麗なのだ。背骨から広がる肋骨には、白い身一つ残っていない。言い換えれば、身の養分を全て体に吸収しようと、僕の頭が反射的に考えていたのだ。残さず食べたことを母は褒めてくれたが、そんなことより僕は、残った骨があの日の蝶の羽のように思えてならなかった。その時、僕は何でも口に入れられる存在なのだ、と感じた。

 また、最近は強い生物に近づくために、体を鍛え始めた。よく、木登りや四足歩行をして、イメージを頭の中で作っている。そうすることで、人間から離れてより動物らしく振る舞える気がするからだった。

 もう僕はしょっちゅう図書館へ出かけるようになったし、あの日のカマキリとまた会うために、あの緑道へ出かけるようになった。僕は、楽しかった。

 しかし、僕は忘れていた。この町には、いじめっ子がいるという事を。


 事件が起こったのは、普通の学校の日。僕はいじめっ子達に捕まらずに帰れるように、学校の正門と裏門をかわるがわる使っていた。そして、今日は裏門から。裏門は、あの緑道との距離がやや近い。僕は意識せずとも、裏門を使う頻度が増えていた。

 それが良くなかった。そう分かるのに、僕が門を出てからそう時間はかからなかった。

 僕は緑道へ辿り着くと、いつものようにカマキリを探し出した。カマキリは罠の仕掛けようがないし、緑道と同化してしまうので、とても探すのが難しい。しかし、僕は毎日根気強く探していた。

 その根気が、功を奏したのかもしれない。

 …見つけた。そのカマキリは、あの日の巨体にそっくりで、ずっしりと構えて、ちょうど獲物を狙っている様子だった。今日の獲物は、バッタ。多分、ヒシバッタというやつだ。

 ジリジリとカマキリが近づいていく。それにつれて、またお腹の辺りから広がってくる感覚があった。

 僕は、外であることも忘れて、ズボンの中、パンツの内へと手を伸ばしていく。そっと触れるだけで、頭がクラクラしそうだった。

 そう思っているうちに、あのでかい鎌の間合いにバッタを捉えていた。鎌がゆっくりと近づいていく。

 僕は、じっと見ていた。周りを見ていなかった。

「てめー何してんの?」

背筋が凍った。恐ろしいほど聞いた、あのいじめっ子の声が、背後にいた。僕が後ろを振り返る、よりも速く、取り巻きの二人が僕を軽々持ち上げる。そして宙に浮いたかと思えば、僕はそのままどこかへ運ばれ始めた。

 もちろん、僕は逃げ出そうとした。

しかし、二人の力は思った以上で、抵抗できるほど甘くはなかった。とても小学五年生とは思えない。

 そうこうしている間に、緑道を抜け、僕はいじめっ子のリーダーの家らしき場所の庭で下ろされた。

「近頃どこ行ってんのかと思ったら、緑道で生き物探し?しかも、ズボンに手ェ突っ込んで、きったねぇな!」

そう罵倒され、取り巻きは嘲笑する。

 ああ。なんで、僕はこの恐ろしさを忘れていたのだろう。

「まあいい。今日は久しぶりに遊ぼうと思ったんだァ。」

そう言うと、リーダーは庭の裏にいる飼い犬を連れてきた。

図鑑に写真が載っていたので、間違いなくあれは柴犬だ。

「俺の犬とおめーを、今から喧嘩させる。俺らに面白い試合を見せろ。もちろん、俺の犬の方が強ェだろうが」

見た感じ、強いのは間違いないだろう。飼い犬とは思えない大きさ。牙も鋭い。おまけに、僕を敵だと思っている様子だ。今はリーダーがリードを持っているので攻撃されることはないが、手放した途端、僕は襲い掛かられてしまうだろう。

 が、僕は怯んでいなかった。なぜなら、カマキリを見つけてからまだ数分しか経っておらず、まだ心の奥から凶暴な生物達への憧れが、湧き上がり続けていたからだ。

 その憧れに突き動かされ、僕は戦闘体制になる。あのカマキリのように、大きく、勇ましく。感覚を研ぎ澄まして、構える…。

 僕が好戦的なのに気づいてか、飼い犬もこちらへ向かって来ようとする。そしてついに、リーダーの握力に敵わず、犬が一直線に向かってきた。

 僕はすかさず手を広げ、包むように突進を受ける。まるで、犬の窄まった頭蓋骨が僕の腹にささるようだった。

 ウッ…。

 信じられないほど痛む。苦しい…逃げたい…。

 そんな頭に浮かんだ弱音を、すぐにかき消す。こんなところで引き下がってたまるか!僕が憧れたあのカマキリのように立ち向かうんだ!!

 ヒーローにでもなったかのようなセリフを吐きながら、向かってくる犬を押し返し、反撃へ向かっていく。獲物を襲うのに、理由は必要ないのだ。

 まずは、手足を押さえ付けて、身動きを取れない伏せの状態にした。そしてまたがる様に上に乗って、身動きを許さない。そうして僕は、先程の仕返しとばかりに背中や頭へ殴りかかった。

「てめェ!やり過ぎだろバカ!」

なんて声が聞こえた気がした。けれど、僕は戦いに夢中で、攻撃を止めることはなかった。

 やり過ぎだろだって?

 知らないのか、自然界では情けをかけた方から死んでいくんだ。そもそも、先に攻撃したのはお前らだろう。なら、こうなるのは当たり前なんだ。

 そう告げるように、ふっとリーダーの方を見る。今にも泣きそうな顔だった。

 僕は、ああ……こいつは弱いやつなんだ、と思った。

 それだけ思って、また喧嘩に集中しようとする。が、犬の抵抗があまり激しくなくなった事に気がついた。かなりの回数殴ったので、すっかり弱ってしまったのだ。

 ここで辞めても良かった。けれど、僕の湧き上がるパワーはとどまるところを知らなかった。

 僕は跨いだ状態のままの犬の腹に顔を近づけた。そして、一口、かぶりついた。

「やめろぉぉっ!」

その瞬間、どうやっても思い出せなかったカマキリの映像が、突然フラッシュバックした気がした。しかし、僕は見ていないフリをして、とにかく喧嘩に意識を今は向けようと思った。

 改めて振り返ると、意外に皮膚が頑丈で、肉を噛みちぎれそうにない気がした。僕は犬の毛を掻きむしって、もう一口、深く深く抉り出すように食べる。少量の赤い肉が、口の中へ入った。

 犬は痛がって、ワンワン吠え上がる。逃げ出そうと、足をばたつかせる。しかし、僕は絶対に逃すつもりはない。あのカマキリなら、絶対に逃さない。

 ここで再び、映像を見た。そして、あの勇ましい姿は、獲物を決して離すまいとしている事に気がついた。

 なら、僕だって。

 僕は体勢を変え、腕で犬の腹を鎌のように挟んで、横腹を食べる。あのカマキリの映像が、頭の中でループしている。僕はあのカマキリの様に、バリバリと食らいついた。

 しかし、どこを食べてもおいしくはなかった。図鑑の肉食動物は、こんなものを食べていたんだ。不味い肉を食べ続けられるか不安だったが、欲にまみれて感覚が麻痺してきたせいか、どんどんと胃袋へ運ばれていった。

「おい、もうやめてくれよ…。なんでそこまでするんだよ…」

犬は出血多量で足を立てることができなくなっていた。そこを腕で伏せるようにさせ、どんどんと腹を食べていく。もう人の声も、犬の声も、僕の耳には届かない。食べ尽くしたいという欲に、僕は支配されていた。

 腹を適当に食べ尽くしたら、犬は完全に生き絶えた。僕は口周りを舌舐めずりする。血液を飲むというのは、喉が渇いて仕方がないと感じた。

 しかし、腹がいっぱいでも、まだ満たされていないような気がした。

 そこで、僕は犬の正面にしゃがみ込んだ。そして、犬の顔面を口へ入れようとする。

 が、この時僕は、背後の人影に気付いていなかった。

「何やってんだテメェ!!」

ドスの効いた、男性の声。その声の主に両手で取り押さえられ、身動きが取れなくなった。

 そこで僕は、ようやく正気を取り戻した。

 僕は服も手足も血まみれだった。怪我で出てきた僕の血か、犬の腹の血かはもうわからなくなっていた。

 そうして改めて庭を見ると、顔面蒼白の女性、その女性に顔を埋めて泣いているリーダーの男、そして、あの犬の死骸があった。いつの間にか取り巻きはどこかへ行ったようだった。

 僕はどうやら、とんでもないことをしたらしい。でも、自然界ではこれが普通だろ、とも思った。

 けれど、

「お前よおやってくれたな!ウチの犬をこんなひどい姿にしやがって!絶対に!死ぬまで許さないからな!!」

と、僕を捕らえた男性が言って、僕はようやく気がついた。

 僕は、捕食する側なんかに成れた訳じゃなかった。ずっとずっと、食べられる側の唯の人間だったのだ。

 僕は、その男性に引きずられながら、その家に連れていかれた。

 食べられるのは、気持ち良くなかった。

あとがき


押見修造先生の影響で書き始めた小説です。

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