弱き生き物
動物たちが再び襲いかかってきた。数え切れない獣たちの群れを、動けない私の代わりに兄が黙って迎え撃っている。
私の真上で振るわれる兄の刀。まるで私を庇うみたいな行動に困惑した。
その時、再び白露院の声がした。
『嗚呼、弱くて必死で愛しいね。みっともなく足掻いて戦って、何を守れるつもりかな』
ぞっとするような囁き。けれど音の発生源がはっきりしない。
狼に噛み付かれた時は、あの狼から白露院の声がした。
魂が、動物たちの中を渡り歩いているのだとしたら。乗り移っているのだとしたら、本体を祓わなければならない。でもその場所がどこか、気配は分かっても正確な位置が分からない。
遠くでは、意識を戻した生徒たち大勢が戦いに応戦している。
――今しかない。
「人体模型!」
私は叫んだ。傷が開きそうになるが、声に力を込める。
「白露院の場所を、博士に教えて!」
人体模型が振り向く。ぎょろぎょろと素早く視線を巡らせ、やがて、ぴたりと指を突き出す。
『そこヨ! 今、上空にいるワ!』
その指先に、一羽だけ異様に高く飛んでいる鷲がいた。
他の猛禽類と違い、群れず、堂々と旋回しながらもこちらを見下ろしている。
人体模型の声に反応した博士が即座に振り向く。
博士は静かに弓を構えた。
弦が引き絞られる。
博士の眼鏡の奥にある瞳が、まっすぐ鷲を射抜いていた。
鷲が博士の視線に気付き、博士の方へと飛んでいく。
けれど、博士の方が速い。
博士から放たれた矢は、空を割り裂くように真っ直ぐに飛び――鷲の胸を、寸分の狂いもなく貫いた。
空高く、耳をつんざく悲鳴が響く。
鷲の姿が、黒く脆く崩れていく。まるで焼け焦げる紙のように、塵となって舞う。
その中から、何かが露わになる。
人影。いや、霊魂だ。装束を着た男の姿を取ったそれが、苦しげに蹲り、呻き声を漏らしている。
「白露院……」
思わず声を漏らした刹那、目が合う。
黒く翳った眼差し。どこまでも深い、果てのない暗闇のようなその瞳が、何故かまっすぐに私を捉えていた。
その視線の主、白露院が、低く嗄れた声を漏らす。
『嗚呼……君。また君だ。いつも、いつもいつもいつもいつもいつも、私の前に現れる。私は君を、殺し損ねる』
破れた直衣の裾をずるずると引きずりながら、白露院は地を這うようにこちらへ近付いてくる。
私は咄嗟に身構える。が、それより早く、兄が一歩前へ出る。
鋭く構えられた二振りの刀が白露院を牽制した。
ふと、私の視界の端に、黒い靄のような揺らぎが走った。次の瞬間、私の目の前に、異様な光景が広がる。
そこは処刑地のようだった。
川が流れている。河原には、竹で組まれた即席の処刑台が組まれていた。
早朝の冷えた空気の中、霧に包まれた川のせせらぎが微かに響いている。
その中央に、一人の男が跪いていた。髪は無残に切られ、衣は垢に塗れ、目は虚ろだ。
両手を荒縄で縛られ、貴族の象徴であった冠は踏みにじられている。
これは、白露院の記憶だ。霊を祓う直前、相手の思いや記憶が流れ込んでくることはよくある。思いが強いほど、見えやすい。
処刑人たちが距離を置いて立ち、見物に集まった群衆がざわついていた。
その多くは民衆ではない。中流以下の官人、あるいは政敵の家人たち。
誰もが、没落した貴族の最期を、好奇の目で見つめていた。
処刑台の前に、年若い一人の女が立っていた。
髪を高く結い上げ、肩には金糸の刺繍が施された陰陽師の装束をしている。そして、白露院に向けて細身の刀をゆるやかに構えていた。
――「可哀想に。信じていた人に何度も裏切られたのですね。しかし貴方が研究のため、大量に動物を殺していたこともまた事実。私には死んだ動物の声が聞こえるのです。貴方の手により苦しんで死んでいった動物たちの、無惨な姿が見えるのです。境遇に同情の余地はありますが、生かしておくわけにはいきません」
白露院は笑っていた。血色のない唇を吊り上げ、狂気と悲哀の入り混じった、静かな笑みだった。
――「では、この身の魂、鷹にでも犬にでもなって、幾百年後にでも戻ってきましょう。いずれ私の恨みが獣となって人の世を支配する日が来るでしょう」
対する陰陽師の女は、哀れむような目をして微笑んだ。
――「鷹になろうと犬になろうと、私が祓って差し上げます。恨みを抱いて今世にとどまり続ける方が、きっと苦しいものですよ」
彼女は白露院に向けて、刀をゆっくりと構え直した。
河原が掻き消え、場面が変わった。
瓦礫の散乱する地面に、和装の男女の死体が、無数に横たわっている。
その中には、武器を手にしたまま絶命した除霊師たちの姿がある。
地面には結界の名残と思しき痕跡や、散り散りになった御霊符が焼け焦げていた。
あまりにも多くの人間が死んでいた。
その中心に白露院が立っていた。
先程とは違い、もはや人とは呼べぬ異形となっている。黒い瘴気を纏い、影のように形を変えていた。
その白露院を、一人の女が見据えていた。
――「この数百年、多くの人々を殺したようですね」
女は、深い青の着物を着ている。
腰には御霊具らしき短剣を挿し、片手には呪符を携えていた。
煤けた頬に血が滲んでいるが、背筋は真っ直ぐに伸びている。
その女の風貌は、さきほど観た陰陽師にひどく似ていた。
――『……何故、生きている』
低く響く声が空気を震わせる。
――『人の寿命など、精々百年。君が生きているというのはおかしい』
女は首を傾げた。
――「何のことだか存じませんが、貴方を祓おうと努力し続けた一族の血は脈々と受け継がれています。たとえ何人殺されても、貴方が何度復活しても、百年後、二百年後、また貴方の前に、私達の子孫、そしてその仲間が現れるでしょう」




