手を
『借りは返したよ』
気味の悪い声がくつくつと笑っている。
借り、とは。何だろう。大昔、私の先祖が白露院を封印したことだろうか。そんなの、私には関係ないのに。何で私がこんな目に。
痛い。
苦しい。
もう頑張りたくない。
何でこんなことしてるんだろう。
博士とさえ出会わなければ。
猫になった湊や花恋さんと知り合わなければ。
いや、もっと前、こんな学校に無理やり入学させられなければ。
私はきっと今、もっと適当に人生を送っていた。
何者にもならず。こんな痛い思いもしないで。特別楽しくもなければ変化もない、退屈な人生を。
それを望んでいたはずなのに、柄にもなく頑張るからこんな目に遭う。
……私、本当に、何でこんなことしてるんだっけ。
思考が鈍っていく。
傷口から血が流れ出ているのが分かる。服がじっとりと重く湿っていく感覚がする。
視界の端が暗く滲んで、輪郭が崩れていく。
ダメだ、体が動かない。
視界の隅に、さっきの狼が見えた。私にとどめを刺そうと近付いてくる。牙を光らせて私の首元を狙っている。
逃げなければやられると分かっているのに、手足はまるで自分のものじゃないみたいに動かない。
ああ、私、ここで死ぬんだ。
諦めのような感情を抱き、同時に、悔しさが生まれた。湊をまだ助けられていないのに、って。
狼が私に跳びかかろうとした――が、予想していた痛みは襲ってこず、代わりに低く重い破裂音が響いた。
狼の動きが止まる。その額のど真ん中に、一本の矢が深々と突き刺さっていた。
「優眠さん! 立ち上がってください!」
遠くから博士の大声が空気を裂くように飛び込んできた。
博士の声で、途切れかけていた意識が現実に引き戻される。
……本当は諦めたくない。
私には、あの時あいつの母親を祓った責任がある。
何でこんなことしてるか? 私は多分、あの人達に報いたいのだ。だからこんなに頑張ってるんだ。
私なんかを除霊の道に戻そうとしている人達の夢を、博士の夢を、叶えてあげたい。
歯を食いしばりながら、腕に力を込める。まだ震えている膝に重さをかけて、ぐらつく体を立ち上がらせた。
もう動ける時間も限られている。優先順位を付けなければならない。
ちらりと博士たちの方を見る。鳥たちが空から降り注ぎ、獣たちが彼らに襲いかかっている。博士も人体模型も必死に応戦しているが、戦局はじわじわと押され始めていた。この出血じゃ、あそこに加勢する余裕はない。
私は空間の奥、不気味に脈動する黒い球体に目を向けた。
私は一人じゃ何もできない。
あの時失敗したのは、一人でやろうとしたからだ。
だから、残りの力を振り絞って賭けるなら、私にじゃない。
私は力強く地を蹴った。
黒い球体へ一直線に走っていく。
球体に近付くごとに、何かが内側から暴れているような音が聞こえた。誰かがあの中から出口を探している。
私は構えた刀を振り上げ、一気に黒い球体を斬りつけた。
手応えと共に、黒い表面に大きな裂け目が走る。闇の中から、眩しい光が漏れ出した。
中にいたのは、私より年上に見える若い男の人だった。髪の毛が茶色の美男子。大きくなってからは初対面なのに、私には彼が誰かすぐに分かった。
「――湊!」
彼の目がこちらを向いた。驚きに見開かれた瞳が揺れる。
「手を!」
私は手を差し伸べる。
息を荒げながら、それでも言葉を続ける。
「私、もう一度除霊をするよ! だから湊も、もう一度立ち上がって!」
湊が泣きそうな顔をした。
その手がこちらへと伸びてくる。
私はそれを強く握った。
私が湊を引きずり出す、その割れ目に二本の刃がかかる。真っ黒な球体の縁に、二本の剣が食い込み、裂け目が一気に広がった。
湊の後ろから出てきたのは兄だ。彼は迷いなく刃を振るいきる。その一撃に、球体が悲鳴のような音を立てて崩れていった。
中から数十の光が、魂の粒子たちが弾けるように舞い上がる。
それは一斉に天へと昇り、やがて各所に倒れていた制服姿の生徒たちの元へ吸い込まれていく。
倒れていた生徒たちが一人、また一人と目を開いた。
それを見届けたところで、私はその場に崩れ落ちた。硬い床の冷たさが背中に伝わってくる。
私は一人じゃ何もできない。だから仲間に賭けた。
もう動けなくても、あとは他の皆がいる。
中から出てきた兄が二刀を片手に、冷たい目で血だらけの私を見下ろしている。
「何で本家に連絡せえへんかった?」
私は息を荒げながら、無理やり口角を上げて言ってやった。
「……私と、私なんかを除霊師に引き戻そうとしてくれた、ガリ勉優等生の手柄にしたかったから」
兄は数秒、黙って私を見つめていた。しかし、やがてふっと口元を緩めた。
「へえ? よう言うようになったやん。お前、変わったな」
そして、顔を上げて視線を巡らす。今なお戦っている博士や人体模型――目覚めて動き出した生徒たちの方へ。
「ガリ勉優等生っちゅーのは、あのいかにも真面目そうな眼鏡か」
私は小さくこくりと頷いた。
「ふーん……」
兄は興味なさげな相槌を返しながらも、肩の力を抜くようにして刀を構え直した。
「しゃーないな。一度くらいはお前と、お前のボーイフレンドの手柄にしたるわ」
その背中が、倒れて動けない私の前に立ちはだかる。




