闇 二
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俺は立ち尽くしていた。
黒い膜のような闇が、まるで粘つくように離れない。足が鉄の鎖で縛り付けられているかのように重たい。
背後には、虚ろな目をした生徒たちが数人いる。彼らは俺が呼びかけても応えない。もう魂ごと蝕まれているのだろう。いずれ俺もああなる。
ここは白露院が作った空間の中だ。俺の意思は白露院に閉じ込められている。最初の頃は猫を通して外の世界と意思疎通をすることが可能だった。でもそれも、最近はできていない。このまま俺の心はここで腐っていくのだ。
目を閉じれば、低い位置からしか見たことのない黒髪の女の子のことを思い出す。俺はあの子に会うためにこの学校に進学した。けれど結局、猫の姿でしか会えなかった。一度だけでも、また再び、人間と人間として対面することができたなら。あの日のお礼を言いたかったのに、それももう、無理だろう。
この闇の底で、俺は少しずつ、形を失っていく。
子供の頃、旅行先で、俺たち家族は交通事故にあった。相手の運転手はひどく酔っ払っていたらしい。
運転席の父は、衝突の瞬間に命を落とした。助手席の母はかろうじて息があったが、血に染まったまま意識を失い、呼びかけには一切応えなかった。
後部座席にいたのは、俺と、弟の博士、それから妹の花恋。ぐしゃりと潰れかけた車体の中、三人とも軽傷で済んだのは、奇跡としか言いようがなかった。
俺は長男だからしっかりしなきゃいけないと思って、震える手で電話をかけ、救急車を呼んだ。
けれど――俺達が到着した時、医者の口から告げられたのは、低酸素による母の大脳皮質の壊死だった。
医者の言葉を端的に訳せば、母の意識はもう、戻らないということだった。
それでも俺たちは信じたかった。母はきっとまた目を覚ましてくれる。たとえ少し時間がかかったとしても――と。
最初に「お母さんが見える」と言い出したのは、俺たち三人の中で、唯一霊感が人並みに強かった花恋だった。
俺と博士は花恋の不可解な発言に顔を見合わせた。
「見えるって……? どこに?」
「病室の隅に立ってる。こっち見てる」
花恋はそう言い、怯えたように母のベッドから目を逸らした。
当初は、事故のショックで混乱しているのだろうと思った。
しかし、その病院では、確かに母が搬送されてから不審死が相次いでいた。
原因不明の呼吸停止。容体急変。不可解な転倒事故。どれも医学的な説明はついていない。
花恋はさらに言った。
「お母さん、他の患者さんを殺してる。辛そうにしてる。ここにいたくないって言ってる。ずっとどこかへ行こうとしてるの」
ここというのは、病室のことなのか。あるいは病院そのものか。
俺たちは何度も話し合った。看護師に転室を願い出ても、子供の言うことだと相手にされない。
そして、ある夜、花恋がぽつりと漏らした。
「ねえ、最近、お母さんが……お母さんじゃないみたいなの。日に日に、変になってきてる。ずっと苦しんでる。あんなの、可哀想だよ」
病院の患者は、一人、また一人と命を落としていった。
事故以前の母を思えば、到底信じがたいことだった。虫一匹殺せない、柔らかな声で俺たちを諭し、どんな時でも他人を思いやる人だった。
そんな母が人を殺しているとすれば、もはやそこにいるのは、俺たちの知っている母ではないのかもしれない。
俺は何度も人工呼吸器に手を伸ばし、そのたびに手を引っ込めた。死者の数は増え続けている。それでも俺にはできなかった。たとえもう、母の心がそこにいなかったとしても。
母の生を終わらせるという行為を、俺自身の手で完結させることが、できなかった。
〝その人〟に会ったのは、俺達が人を殺す母から目を逸らし続けて、何年も経った後だった。
母は、隣の病室に移ってきた老人の枕元に立っていた。意識のないその老人の上に、黒くねじれた影が、じっとりと滲むように張りついていた。この頃には、母の姿が俺の目にもわずかに見えるようになっていた。霊感のない博士は見えないようだったが、邪悪な気配はわずかに感じ取っているようだった。
「やめろ、母さん!」と叫びかけたその時、一人の女の子が、疾風のような速さで俺たちの横を駆け抜けた。
その背は、俺たちと同じか、少し低いくらいだった。
けれど、その手に握られていたのは――背丈には不釣り合いなほど巨大で、しかし扱い慣れていることがひと目でわかる、美しい刀だった。
彼女の動きには一切の淀みがなかった。迷いも戸惑いも、そこにはなかった。ただ今目の前の殺されそうになっている人を助けようという強い意思を感じた。恐怖すらも切り捨てたような、その鋭く正確な一振りに――俺は、目を奪われた。
その女の子は、俺の母を斬った。
ただの女の子ではないと、その瞬間に思った。
あれが〝除霊師〟なのだと。
俺たちが背を向け続けていた現実に、真正面から刃を向けられる者なのだと。
「お母さん……笑ってる……」
隣でぽつりと呟いた花恋の言葉に、俺ははっとして母の方へと視線を向けた。
その時、確かに見えた。長く黒くよどんでいた影――殺意や執着の塊だったその気配が、ふわりと解けるように、優しさを取り戻していく。
俺の鼻をかすかにくすぐったのは、懐かしい母の香りだった。
灰のように静かに、光の粒となって消えていく母の面影。最後の一瞬だけ、何かを伝えたそうに、こちらを見つめていた。声はもう届かない。けれど、口元の動きで、何を言っていたかは分かった。
『ごめんね、ありがとう』
俺は息を呑んだ。
母の表情はどこか安らかだった。
母は、身体が朽ちるその瞬間まで今世に留められるのではなく、早く父のところに行きたかったのだろう。
死に時を自分で決められることは、生き方を選べることと同じくらい大事なことだと俺は思う。
真中優眠という少女は、母のことを優しく眠らせてくれた。
その日から俺は、俺達は、除霊師を目指そうと張り切った。
なのに今は――と、俺が回想に囚われ、遠い過去に意識を預けていたその時。
闇の中に、異質な気配がふっと差し込んだ。
コツ、コツ……と、規則的な足音がした。
――誰か入ってきた。白露院に取り込まれた、新しい生徒だろうか。
俺は静かに顔を上げる。
そこに立っていたのは、背の高い男だった。ラフに着崩した制服、ポケットに突っ込んだ両手、明るい髪。軽薄な印象を受ける格好だ。
しかし、俺はこの人を知っている。
「なんや、変なところに取り込まれてしもたなあ」
男は愉しげに、軽い口調でそう言った。
――真中清光。
テレビでよく見る、優眠ちゃんの兄だ。




