もしも私がもう一度
しばらくして、医療従事者たちが慌ただしく部屋に流れ込んできた。誰かが女の名前を呼び、誰かがモニターの数値を読み上げていた。
私は一歩も動けず、世界から取り残されたようにただ呆然と立ち尽くしていた。
周囲の声も自分の心音も、妙に遠く感じた。唯一はっきりと聞こえたのは泣き声だった。
廊下の向こうで私を見ていた三人の子どもたちが、いつの間にか部屋に入り込んで、遺体を見ながら泣いていた。
顔をくしゃくしゃにしながら、「お母さん」と呼ぶ声が、何度も何度も響いた。
それを聞いて私はようやく理解した。この女は彼らの母親だったのだと。そして私は、彼らの母親を殺したのだと。
何を勘違いしていたのだろう。
私は輝く兄のようにはなれない。覚悟も判断も、足りなかった。
――〝妹〟である私が出しゃばったところで、ろくなことにならない。
「ニャア」
ぺし、ぺし、と柔らかな肉球が頬を叩いてくる感触で目を覚ました。視界にぼんやりと映るのは、私の顔を覗き込む一匹の猫、ミナトだった。
その目は心配そうに揺れ、何度も顔を叩いて私を起こそうとしている。
口の中がひどく渇いている。喉が焼けつくようで、起き上がると同時に激しく咳き込んでしまった。額は汗でじっとりと濡れており、全身の節々が重い。
もう三日、高熱が続いていた。学校にも行けず、食欲もなく、ただ布団の中で悪夢にうなされ続けている。
博士には、白露院が封じられている場所だけをメールで知らせた。すぐに見舞いに行くと言ってくれたが、文化祭準備の中心人物である彼に風邪をうつすわけにはいかない。私は放っておけば治るから、と固くお断りした。代わりに、私の部屋のドアノブには、毎日差し入れのようなポカリと、ちょっとしたご飯がかけられるようになった。〝食欲があったら食べてください〟という書き置きとともに。
妙な感じだ。これは普通の風邪じゃない。おそらく、白露院に乗っ取られた人間と接触したせいで、その気にやられているのだろう。あの時締められた首がまだ、時折じんじんと痛む。
思考が濁っていく中で、不意にインターホンの電子音が響いた。
私はふらふらと立ち上がり、手すりに掴まりながら玄関のモニターを覗き込む。
そこに映っていたのは知らない生徒だった。
『真中サーン。真中サーン』
制服を着てはいるが、どこか様子がおかしい。頭がわずかに傾いていて、目はぎょろぎょろと異常な速さで動いている。その動きに生気はなく、まるでこの世のものではない何かに操られているかのようだった。
『真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン。真中サーン』
……またか。
私はため息をついた。
無視してベッドへ戻ろうと背を向けたが、ドンドン! ドン! ドンドンドン! と、後ろから扉を激しく叩かれる。ガチャッ、ガチャガチャッと、何度も無理やりドアを開けようとされる音も続く。
この三日間で、白露院に乗っ取られた生徒が、六人も私の部屋を訪れてきた。
白露院は私を殺そうとしている。
どうやら花恋さんの読みは正しかったらしい。
私はソファに腰を下ろした。全身の熱はまだ引いていない。
視線をローテーブルへ落とすと、そこには一枚の紙がある。宅配便の不在票だ。手を伸ばし、それを指先で摘む。細い紙の表には、実家の住所が記されている。
「……ミナト」
隣で丸まっていた猫に声をかける。
猫の耳がぴくりと動いた。けれどまだ、ミナトの意思は起きていないようだった。
「嫌な思い出と真正面から向き合うのは、きついよね」
私は視線を下げ、不在票をぎゅっと握る。心のどこかで、まだ迷っている。
「分かるよ。私も、逃げ続けてる人間だから」
それでもぽつりと、自嘲的に問いを投げた。
「……もしも私がもう一度除霊をしたら、ミナトも勇気を出してくれる?」
猫は反応しなかった。




