なんで私がこんなことを
私は無言で猫の首根っこを掴み、そのまま窓際へと歩いた。
窓を開けると、生温い空気が肌を撫でる。
『うわっ、おい、何すんだ!』
「面倒事に巻き込まれるのは避けたい……」
『間違えた、俺はただの猫です! ニャ〜』
猫から焦ったような声が飛んできた。
今更ただの猫ぶっても遅いわ、と窓から外に放り投げようとして、ふと昼間のクラスメイトたちの会話を思い出す。
……山本?
よくある苗字だし、偶然かもしれない。でも気になるので一応、猫をこちらに引き寄せて小声で聞く。
「……あんた、弟いる?」
猫の耳がピクリと揺れた。
『! ああ』
「……それって、山本博士?」
『そうだ! 君、知ってるのか?』
「あんな学校中の有名人知らない方がおかしいって……」
私は猫を一旦床に下ろして頭を抱えた。
まいった。こいつ、行方不明の山本博士の兄ってこと?
いくら不思議なことは何でも起こる霊冥高等学校とはいえ、人が猫になるなんて聞いたことがない。
『弟に会いたいんだ。そいつに引き渡してくれたら、もう君には関わらない。頼む』
猫が懇願してくる。
「自分で会いに行けばいいじゃん」
『俺が人間としての意識を保っていられるのは一日のうち三時間くらいしかない。それ以外は眠ったみたいに意識が途切れるんだ。毎度毎度、俺の意識が戻るのは昼間のことが多い。授業中に校舎に入ってあいつに話しかけるわけにもいかないだろ?』
私は息を呑んだ。猫の意識と、山本湊本人の意識が交互に入れ替わるということなのだろうか。
しかも、その三時間が昼間に偏ってるとしたら――なるほど、授業中の校舎に潜り込んで山本博士に会うのは、確かに難しい。
山本博士は真面目一徹のガリ勉で、学校にいる時間は誰よりも長い。朝も早いし、テスト前以外は夜まで部活をしているか、放課後の時間を用いて勉強しているって噂だ。
生徒や教師の目もある中で、猫の姿じゃ接触しにくいだろう。
「泥だらけになってたけど、あれはあんたの意思?」
『いや、猫の意識が遊んでいたんだと思う。俺の意識が戻ったのは、君に鞄に入れられた時だ』
私は再び猫――いや、ミナトを見下ろし、ため息を一つ吐いた。
――どうしよう、本当に厄介なのを拾ってしまったかもしれない。
しばらく考え込む。
ミナトは小さく身を縮め、こちらの出方をじっと伺っている。
「……分かった」
ぽつりとつぶやくと、ミナトが顔を上げた。
「明日、あんたを鞄に隠して学校に連れて行く」
その言葉に、ミナトの目がぱあっと見開かれる。
「山本博士に引き渡す。……それでいい?」
『本当か? ありがとう』
ぴょんっと跳ねるように飛び上がって、ミナトが私の足に頭をこすりつける。
猫の姿でなければ、きっと満面の笑みだったんだろうな、と思う。
私はぐっと伸びをして、うんざりしながら部屋の天井を見上げた。
◆
翌朝。
私はミナトを鞄の奥に忍ばせて登校した。重みが増した鞄を背負うと、妙に背中が落ち着かない。
何で私がこんなこと……という気持ち九割だが、残りの一割で、早くこの猫を穏便に手放したいという気持ちがあるので、そのためにはさっさと山本博士に事情を説明するしかない。
午前中の授業が始まる。
私は山本博士に話しかけるタイミングを見計らい、自由席である実験室で何とか山本博士の近くの席を奪い取ることができた。
前の席に座る山本博士を、何度も、ちらりちらりと盗み見る。
彼はいつも通り真っ直ぐノートに向かって、板書を一文字も漏らすまいという気迫でペンを走らせている。
話しかけようと口を開きかけるたび、その真剣な横顔に圧されて声が引っ込んだ。
まるで空気の壁でもあるみたいに、彼の周囲だけ時間が張り詰めている。
――やっぱ無理だ。授業中はやっぱ無理。ていうか怖い。真面目すぎて怖い。
授業を終えても山本博士は休まない。
普通の生徒ならすぐにスマホを取り出して、菓子パンを齧ったり、友達と雑談を始めたりするような時間なのだが、彼にとっての休み時間は授業の延長戦のようなものだった。
彼はチャイムが鳴った瞬間にすっと立ち上がり教卓に向かう。
教科書を小脇に抱え、迷いのない足取りで先生の元へ行くその姿は勇ましかった。
前の時間の授業内容について質問をする山本博士。「演習6の式変形の意図が曖昧です」とか、「霊的共鳴点についての史料の出典をもう少し厳密に追いたいんですが」とか、教師泣かせの真面目さだ。
「山本、念の伝播速度って結局何に左右されるんだっけ?」
「念波の振動数と周囲の霊圧との相互関係ですよ。式は教科書53ページの5行目に記載があります」
戻ってきたと思えば、すぐに誰かの机の横でノートを覗き込みながら丁寧に説明を始めてしまう。
私は鞄の中に目をやった。
微かに動いた気がして、慌てて布で覆い直す。
ミナトの意識があるうちに話をつけなきゃいけないのに、と焦りを覚えた。
午前中のコマがすべて終わり、ようやく昼休み。
私は息を整え、意を決して立ち上がる。よし、今度こそ。今なら話しかけられる。
……しかし、山本博士の席は空っぽだった。
「えっ……」
思わず驚きの声が漏れた。
ついさっきまでそこにいたのに、と私は呆然と立ち尽くす。
はっとして鞄を持ち、急いで教室を飛び出した。
じめじめした空気の廊下に出て、周囲を見回しながら足を速める。
あいつのことだから職員室に質問に行っているんだろうか。いや、部室に行っているかもしれない。それとも食堂? そもそも山本博士はいつもどこで昼食を……。




