カラス
翌朝。私は目覚ましのアラームを止めると、まず最初にミナトのいるクッションの上に目を向けた。
猫の姿をしたミナトは、丸くなって眠っている。
「……ミナト、起きてる?」
名前を呼んでみるが応答がない。耳がぴくりと動いたような気がしたけれど、それきり動かない。
朝はやっぱりダメか。
前からそんな傾向はあった。ミナトの人格が現れるのは、太陽が昇ってからの時間帯が多い。今はまだ完全に猫モードらしい。仕方ない、と私は身支度を整えて学校へ向かった。
午前の授業がやけに長く感じられた。時計ばかりをちらちらと見ては、昼休みが近付くのを心の中で急かした。
チャイムが鳴る。瞬間、私はガタンッと大きく音を立てて勢いよく立ち上がった。
前の席に座る意識の高い男子たちがこちらを振り返るのが分かった。いつも怠そうにゆっくりと動き出す普段の私とは違う、唐突な起立に驚いたのだろう。
私は教室を飛び出し、駆け足で寮へ向かった。
寮の階段を駆け上がった私は扉を開け、部屋に飛び込む。ミナトはテレビの前、ふかふかのクッションの上でくつろいでいた。画面にはお昼のニュース番組が流れている。
「ミナト!」
呼びかけると、ミナトはぴくりと動いてこちらを向いた。
『うおっ、ビビった。どうしたんだよ? 学校の時間じゃ……』
「ミナトの意思があるうちに、一緒に来てほしいところがあるの」
私はカバンの口を開け、ミナトを中にぐいっと押し込む。
そして、玄関に立て掛けてあった木刀を掴んだ。
『ちょ、急に何だよ! 先に説明を――』
小走りで階段を駆け下り、玄関で靴を履き替える。
女子寮を出て校舎へ向かおうとしたその時だった。
「その猫、どこへ持っていくの?」
後ろから、低く静かな声が響いた。空気がピンと張り詰める。
私はピタリと足を止めた。背筋に冷たいものが走る。ゆっくりと振り返ると、男子寮の寮長が立っていた。
制服の上に羽織ったグレーのカーディガン。少し長めの黒髪に、白い肌。理知的で鋭いその視線が、まっすぐこちらの鞄を――ミナトを睨んでいた。
彼には一度、ミナトのことを見られている。隠しておいてあげるとも言われた。だから緊張する理由はないのに、バクバクと心臓が嫌な音を立てる。
「……たまには、外で遊ばせてみるのもいいかなと思いまして」
取り繕うように答えつつ、心の中であることが引っかかった。
……そもそもこの人、昼休みなのにどうして寮の近くにいるんだろう。
寮長は、一歩、また一歩と近付いてくる。足音は静かなのに、近付かれるごとに空気が重くなっていく感じがした。
気配が迫ってくる。
そして、その手が、すっと私の首に添えられた。
冷たい。まるで生きている人間のものとは思えない、湿った冷気が皮膚を伝ってくる。
動けない。喉にぴたりと指が絡みつき、体が硬直する。まるで鎖で縛られているみたいに、足も腕も、私の意思に反して動かない。力が抜けて、握っていたはずの木刀が地面に落ちた。
寮長の手にじわじわと力がこもり、気道が締め上げられていく。苦しい。息ができない、と目を細めたその時だった。
『そいつから離れろ!!』
鞄からミナトが飛び出した。猫の姿のまま、渾身の跳躍で私と寮長の間に割って入り、その爪で寮長の顔面を引っ掻いた。
ビッ、と鋭い音がする。血は出なかった。
代わりに、ドロリと寮長の顔が溶けた。
「えっ……」
寮長の皮膚が粘土のように崩れ、肉が液体のように垂れ落ち、骨のような形を保っていたものが煙となって消える。
そして――その体は黒いカラスとなり、羽ばたいていく。
「な……何あれ……」
『優眠ちゃん、あのカラスは危険だ。追うな、距離を取った方がいい』
ミナトの声には、いつになく切迫した響きがある。
私は呆然とその黒い影が空高く飛び去っていくのを見送るしかなかった。
「お、追わないけど。何あれ、あんなの見たことない」
説明を求めるように視線を鞄の中へ向けたが、ミナトは目を伏せたままだ。明らかに何かを知っている。だが、それを語る気はないようだった。
『説明は後でする。それより、行きたいところがあるんだろ。さっさと行かねぇと、俺の意識がもたねえ』
時間がないのはその通りなので、私はカラスの存在が気になりながらも、渋々頷いた。
「……行きたいのは、理科室だけど……」
腑に落ちないまま、目的地を口にする。
『理科室?』
「白露院の居場所を知ってるかもしれない人形がいる。……その人形が、ミナトに会わせてくれたら白露院のことを教えるって言ってた」
『はぁ?……何で俺?』
ミナトが訝しげな声を出す。
ミナトが疑問に思うのも無理はない。しかし、あの人体模型にも乙女?心はあるはずだ。恋に疎い私でも、先に他人の口から秘めた恋心を伝えるのはよくないと分かる。
「理由は本人の口から聞こう。大丈夫、何かあっても私が守るから」
私はそう言って、握っていた木刀をミナトに見せる。
昔私が使っていたものより安物で、学校の購買で売っているような簡易的な御霊具だが、何かあれば反撃して逃げ切るくらいはできるだろう。
ミナトが目を見開く。
『……優眠ちゃん、お祓いはやめたんじゃねえのか』
「祓わないよ。もしものことがあった時、守るために使うの」
私はそう言って歩きだした。
御霊具をこの手に持つのは何年ぶりだろう。昔持っていたものよりもうんと軽いはずなのに、手の中にある質量を重たく感じた。




