今日拾った喋る猫
「そういえば、山本くんのお兄さんって結局まだ見つかってないんだよね?」
猫が消えた方向をぼうっと見つめていた私は、前方の女子生徒たちの声で現実に引き戻された。
彼女たちは顔を寄せ合って、さっきまでと同様に盛り上がっている。
「え、何それ? 山本くんってお兄さんいるの?」
「そう、これわたしも先輩から聞いた話なんだけど。今年の春からずっと行方不明なんだって」
「自殺だって言われてるよね。お兄さんの方はあんまり優秀じゃなくて、弟へのコンプレックスに耐えられなくて自殺って聞いたよ」
「え~そんなことある? でも、そりゃ山本くんみたいな人が自分の弟だったら複雑かぁ……」
私は噂話に耳を傾けながらパンの最後の一口を口に放り込み、紙パックのレモンティーで流し込む。
確かに、山本博士という男を話題にしてその才能や珍しさにはしゃげるのは、あくまで彼が自分とは遠くの存在であるからなのかもしれない。
あんな人が自分の家族だったら、散々比較されて劣等感に苦しむだろう。
兄妹間に格差があることの辛さは、私にもちょっとだけ分かる。
私は会ったこともない山本博士の兄に少し同情しながら、レモンティーの残った一滴を吸いきった。
空になった容器が微かにぺこんと音を立てる。
今日の昼休みも、ぼっちのまま終わった。
◆
学校の授業が終わる頃になっても、外ではまだ雨が降っていた。
校舎のガラス窓を細かい雨粒が叩き、空気もじっとりと重たく湿っている。
鞄を肩にかけて昇降口を出ると、グラウンドの向こうは霧で霞んでいた。傘を持ってこなかったのは私だけじゃないようで、制服のフードを被って走る生徒たちの背中がいくつも見える。
私は別に走らなかった。濡れたって死ぬわけじゃないし、急いだところで寮の部屋に誰かが待っているわけでもない。
校門を出て古びた石垣沿いの道を歩く。水たまりを避けながらゆっくり歩いていると、どこかから微かな鳴き声がした。
「……ニャア……」
ふと立ち止まり、声のする方に目をやると、街灯の根元に小さな影が蹲っていた。
昼休みに窓の外を悠々と歩いていたあの猫だった。
ずぶ濡れで、身体を縮めて震えている。
毛並みは泥にまみれ、細くなった身体が寒さで小刻みに揺れていた。
私は周囲を見回した。誰もいない。
こんな場所で無防備にうろうろしていたら幽霊に取り憑かれるかもしれないのに、この猫はこんなところで何をやっているんだろう。
「帰りなよ。ここにいてもいいことないよ」
猫はじっと私のことを見上げてくる。
……馬鹿みたいだ。語りかけたところで、猫がこちらの言語を理解できるはずもない。
私は面倒な気持ちになりながらも足を踏み出してしゃがみ込んだ。手を差し出すと、猫は私の濡れた指先にぬるりと冷たい鼻をすり寄せてくる。
この土地に埋まっている強力な怨霊である白露院は、動物に憑依して人に近付くと言われている。だから変にウロウロしている小動物がいたら怪しまれて、学校の事務員に殺処分されてしまうことが稀にある。
この猫から邪悪な気配はしない。でも素人の事務員にその違いが分かるとは思えない。放っておいたら明日には殺されているかもしれない。
私は大きな溜め息を吐いた。
そして、猫をそっと抱き上げた。その体はびっくりするほど軽かった。
教科書を全て置き勉しているおかげでスカスカの鞄を開いて、猫の体を中へ入れる。
猫は、鞄の中で小さく一度だけ、くしゃみのような声を上げた。
寮の一室に戻った私は、猫を抱えてバスルームの扉を開けた。寮のユニットバスは狭いけれど、小動物一匹くらいなら洗える。
シャワーをぬるめに設定して、小さな洗面器にお湯をためる。
猫はというと、最初は大人しくしていたものの、いざ濡らし始めた途端、「ニャアアッ!」と情けない声を上げて暴れ出した。水が飛んできて、おもわず私も「うぎゃあ!」と悲鳴をあげてしまった。
私は袖をまくり、肘までびしょ濡れになりながら、必死に猫の体を洗った。背中から足先、しっぽの先まで。細かい泥を指先でほぐすようにして、何度もお湯をかけ直す。
ぬるま湯が濁らなくなるまで洗ってから、やっとバスタオルでぐるぐるにくるんで部屋に戻った。
タオルの中でじっとしている猫の頭を、乾いた布でぽんぽんと叩くように拭く。
さっきまで泥で固まっていた毛がふわっと柔らかくなっていて、なんだか別の生き物みたいに見える。
「……あんた、水苦手なの?」
そう呟くと、猫は一度だけ小さく「ニャ」と鳴いた。
こちらの問いに答えるようなタイミングだったものだから、ちょっとおかしくて笑ってしまった。
私は冷蔵庫を開け、中を見てからしばらく迷った末に、今日の晩御飯にしようと思っていた魚を焼いて身を潰し、小皿に少しだけ移した。
本当はペット用じゃないからあげたくなかったけど、今は他に何もないから仕方ない。
「食べられる?」
そっと差し出すと、猫は警戒もせずに顔を近づけ、匂いを確かめた後一気に舌を動かしはじめた。くちゃ、くちゃ、という音が小さく部屋に響く。
私はその様子を黙って見ていた。
すると、しばらく夢中で魚を食べていた猫が、不意に私を見上げた。
『うまいな。ありがとう』
私は硬直した。
顔を上げ、部屋のテレビの電源が入っているかを確認する。付いていない。
でも、確かに今……声がした。低くて落ち着いた、男の声だった。
『どこ見てるんだ。俺はこっちだよ』
「………………は?」
下から声がして再び猫を見下ろす。
私は固まったまま、口を半開きにすることしかできなかった。目の前の猫は、何事もなかったかのように尻尾を揺らしている。
夢? 空耳? 疲れてる?
私は困惑しながら、注意深く猫の様子を観察する。
『……やっぱりそうなるよな。驚かせて悪い』
――再び、声が聞こえた。
私は文字通り、跳ねるように立ち上がった。背中にぞわりと冷たいものが走る。
「ちょ、ちょっと待って、なにこれ……え?」
慌てる私をよそに、猫はついに、私を見上げてその口をゆっくりと動かした。
『猫じゃない。俺は山本湊。今はこんな姿だが、れっきとした霊冥高等学校の生徒だよ』




