山本博士(オカン)
私はドアを少し開けて山本博士を招き入れる。
山本博士はすっと一歩足を踏み入れ、室内を一瞥した――その瞬間。
「……っ!」
テーブルの上に置かれた、まさに今お湯を注がれんとしていたカップ麺に、山本博士の目がギラリと光った。
「ほら見なさい!」
いつになく語気が強い。
「カップ麺など食べようとしているではありませんか!」
私は条件反射で背筋を伸ばし、咄嗟に手を振って弁解する。
「い、いや、違うの! 普段はちゃんとお惣菜とか買ってるけど、今日はずっと文化祭の準備で忙しかったから何か買って帰るのも面倒で……」
言い訳を口にした後で、何で私弁明してるんだ? と我に返った。
山本博士は険しい表情のまま、ゆっくりとレジ袋をテーブルの上に置く。そして、中から卵のパックを取り出しながらため息をついた。
「真中さんが栄養不足で倒れる未来など見たくありません。僕が防がねば」
なんだか保護者みたいなことを言いだした山本博士は、袖を少しまくり、手を洗ってからキッチンの調理器具を勝手に出し始めた。
男子の女子寮への出入りは二十一時までなら許可されている。しかし、実際に女子寮に入る男子は滅多にいない。女子にキモがられるからだ。それでも堂々と入ってくるこいつには、やはり度胸がある。周りの目を気にしないにもほどがある。
私は部屋の壁に背を預けて床に座り、ぼんやりと料理する山本博士の背中を眺めていた。文化祭準備の疲れが足にきていて、立ち上がる気力はゼロだ。
猫はというと、私の足元で丸くなっている。小さな鼻先がピクピクと動き、明らかに山本博士の動向をうかがっていた。
「今日は寒いですからね。あったまってください」
山本博士がそっと器を差し出してくる。牛すき鍋を作ってくれたらしい。優しい出汁の香りと湯気がふわりと揺れる。
「……ありがとう」
そう言って、私は両手で器を受け取った。ローテーブルの上に載せ、そっとひと口食べる。おいしい。じんわりと味が身体の奥まで染み込んでいくようで、肩の力が抜けていった。
猫はテーブルのふちに前足をかけてじっと私の器を見つめていたが、もらえないと分かると、すぐにあくびをして再び丸まった。
しばらく、何も言葉がなかった。
山本博士はもう一つの器を自分の前に置き無言のまま箸を動かしていたが、不意に手を止めて、こちらに目を向けた。
「何かありましたか? さっきから元気がないようですが」
私は器の中を見つめたまま、一瞬だけ返事に迷った。何で分かってしまうんだろうと驚いたからだ。
一泊置いて、別に隠すことでもないので打ち明ける。
「……大したことじゃないんだけど。さっき、兄から電話がかかってきて」
「ほう、お兄さんですか」
「私、家の人間のことは苦手なの。寮に入ってからはずっと縁を切ってた。なのに文化祭に来るって言うから、動揺した」
私は牛すき鍋の椎茸をかじった後、ぽつりぽつりと家族のことを話し始めた。
名門除霊師の御三家と呼ばれていた三つの家柄の中で、唯一現代でもまだ残っている私の一族には、本家と複数の分家がある。本家に除霊の才のない者しか生まれなかった場合、分家の人間が徴集される。
呼び出されるのは慣例的に分家の長子、それもできれば男児だ。
兄は早くから京都にある本家で教育を受けることになり、私と兄は、血が繋がっているにもかかわらず幼少期のほとんどを別の家で過ごした。
「優眠は妹なんだから、清光を立てるのよ」
母はよくこのように言った。
本家には年四回、長い休みを取って一族が集まる。だから関東に住む私と両親も、京都に向かうことが多かった。
大きな屋敷。広い庭。けれど下の子にとってその場所は、ただの厳格な檻のようなものだった。
本家では、長子以外の年若い子供は半ば使用人のように扱われる。
大人たちの席に茶を配り、空いた湯飲みに気づいては静かに注ぎ、タイミングを見て肩を揉む。そういった〝気の利く子〟がいる家は、褒められた。
挨拶は必ずしなさい、空いているコップがあればつぎなさい、オジサンの肩を揉みなさい、誰よりも早く動いて働きなさい、あなたはそれくらいしか役に立てることがないんだから――と母は私に言い聞かせた。
一度、必死にお茶を配っている時に転倒して、本家の長男に熱いお茶をかけてしまったことがあった。
私は父に殴られた。
「お前は本当に何もできないな! 何もできないなら、出しゃばるな!」
父はよくこのように言った。
慎ましく、出しゃばらず、愛想よく。本家の人間に気に入られることが全て。失敗は許されない。
本家での生活は窮屈だった。たかが年四回、されど年四回。私にとっては永遠のように息苦しかった。
きっと兄もそうだったんだろう。
関東にいる時お調子者だった兄は、本家ではぴくりとも笑わなくなっていた。
そんなある年の、蝉の声が頭の奥まで響いてくるような真夏の午後。
本家の屋敷の裏手にある古びた蔵の前で、幼い私は一人で立っていた。
そこには白く滲んだ影のような幽霊がいた。女のようだった。
足がない。口が開いたままで、何かを訴えるようにこちらを見ている。
私は除霊というものに興味があった。本家の人間が当たり前のようにしていることを自分もやってみたくて、祈るように言霊を紡ぎ、塩を蔵の敷居に撒いた。
「……還れ」
呟いたその瞬間、女の影はふっと風にさらわれたように揺らぎ、消えた。
空気が軽くなる。風鈴の音が遠くから聞こえてきて、私はようやく息をついた。
「……ゆみたん」
その声に振り向くと兄が立っていた。
いつの間にか近くまで来ていたらしい。兄は額に汗を滲ませながら、私をまっすぐに見つめていた。
「お前、一人で祓ったんか」
私は頷く。怒られるかと思って、少しだけ身を固くした。
けれど兄は、ふいに目を輝かせて私の手をぐっと握った。その手は、火照った掌の熱で少しだけ湿っていた。
「すごいやん! 今度一緒に除霊行こ!」
「え……?」
「な、俺と。ゆみたん、めっちゃセンスある。俺、ずっと一人で修行しててん。でも全然除霊できんくて。ゆみたんとやったらできる気がする」
兄の瞳はまっすぐだった。両親と違って私の存在を認めてくれる、はっきりとした光がそこにあった。
私は浮かれた。
兄が私を利用しようとしていただけだなんて知らずに。




