あの時の男の子
目を閉じれば鮮明に思い出せる。
殺風景な病室の前。ガラス窓の向こうには、白いベッドと、機械音に囲まれた女性の姿があった。その体はまるで眠っているみたいに動かなかった。けれどもう、中には誰もいなかった。
ドアの前にいた三人の子供たち。その小さな背中を、私は今でも忘れられない。
上の子は当時の私よりも少し上くらい。しっかり者に見えたけど、泣きすぎて言葉が出ていなかった。ハンカチで弟の涙をぬぐおうとしていたけど、その手が震えていた。真ん中の男の子は、しゃくりあげながら母親の名前を呼んでいた。下の子――まだ幼い女の子は、何が起きたのか分からないようにきょとんとしていた。だけど、兄たちの涙につられて、やっぱり泣いていた。
私はあの子たちから母親を奪った。
「その人は、私が除霊したから完全に死んでしまった。体はまだ生きていたのに。……それから私は、怖くなった。どの幽霊が〝生きてる〟人で、どれが本当に〝死んでる〟人なのか、分からなくなった。誰かを、また間違えて殺してしまうんじゃないかって……」
そんな場合じゃないと分かっている。
だけど、落ち武者なら今祓わなくたって、毎日同じ時間に来るんだから、また明日除霊すればいい。ここはこの男子生徒だけ運んで、それで終わりにしたい。
「だから私……除霊はもう……」
「――真中さんは、その子どもたちの母親を祓っただけでなく、その子どもたちを助けもしませんでしたか?」
屈んでいた山本博士は私の言葉を遮るように立ち上がり、衝撃の事実を口にした。
「すみません。嘘をつきました。この生徒は意識を失っているだけです。放っておいても全く問題はありません」
あの大真面目な山本博士が、嘘をついた。
信じられないまま、ぱちりと瞬きを繰り返す。
「……え」
ようやく声が漏れた頃、山本博士はまっすぐ私を見つめて、静かに言った。
「かつて天才除霊師と謳われていた貴女がどうして表舞台から姿を消したのか知りたくて、もう一度除霊をさせたくて、嘘をつきました」
胸の奥に鋭い杭を打ち込まれたような衝撃が走った。
ゆらりと自分の中の記憶が揺らぎ、その輪郭がはっきりしていく。己の心を守るためにできるだけ閉じ込めていたあの日の光景が蘇ってくる。
あの女性の傍にいた三人の子どもたち。
その真ん中にいた少年――彼は、黒縁の眼鏡をかけていた、自分と同い年くらいの男の子だった。
「……っあんた、あの時の……」
声が震えた。山本博士は私に一歩近付き、そして、ゆっくりと視線を足元に落とした。
「母のことを責めるつもりはありません。肉体に縛られてずっと苦しんでいた母は最期、穏やかな表情をしていました。あれで良かったんです。僕たち家族のことを貴女が助けてくれた。だから僕らは決めたんです。あの日、除霊師になろうって」
彼の声には、怒りも、恨みもなかった。ただ、ひたむきな情熱があった。
「一般家庭出身で、除霊と縁もゆかりもなかった僕は、貴女のおかげで人生が変わった」
私は言葉を失ったまま、ただ彼の顔を見つめるしかなかった。
「生半可な気持ちでバディに誘ったわけじゃありません。貴女と一緒に除霊をするのが入学以前からの僕の夢だったのです。真中優眠さん」
全く接点のなかった山本博士が、私の名前を最初から知っていた理由。
それはもしかしたら、単に学友の名前を全部覚えているから、というだけではなかったのかもしれない。
――『真中さんの方が凄いですよ』
――『君の方が凄ぇよ』
山本博士と山本湊が一様に私のことを凄いと言ったのも、そういうことか。
山本博士が私をバディに誘おうとしたのも、才能があるのに何故使わないのかと迫ってきたのも。
全部、昔の私を知っているから。
「しかし、貴女はやはり、僕たちの母親のことを悔いて……」
山本博士の言葉は、私の過去の罪を責めるものではなく、私の痛みを知ろうとするもののように聞こえた。
「わ……私は……」
今にも崩れてしまいそうな声でそう呟いた時、ガタッ――と、私の真横にあるロッカーが揺れた。
部室にはテニス部が着替える用の大きなロッカーが並んでおり、それぞれに部員の名前が書かれたテープが貼られている。
その一つから、何だか異質な気配がする。
……まさか、この中にいる?
私はおそるおそる手を伸ばし、そのロッカーを開けようとした――が、次の瞬間。
中から押し開けるように勢いよくロッカーが開かれ、重厚な鎧を纏った落ち武者が出てきた。
私は「うわっ」と間抜けな声を出して尻もちをつく。
しかし、落ち武者は私など眼中にないかのように私を通り過ぎ、私の後ろ――山本博士に向かって刀を振った。
まずいと思った。山本博士は幽霊が見えない。眼鏡をかけてやっと霊の居場所が分かるという程度なら、今落ち武者が何をしようとしているのかもきっとぼんやりしていて見えないだろう。
「危ない! 落ち武者、上から刀を振り下ろしてる!」
山本博士は私の咄嗟の声を聞いた瞬間、何とも華麗に背中を後ろに曲げて刃先を避けた。
しかし避けきれなかったようで、かけていた眼鏡が弾け飛ぶ。
眼鏡がなくなったことでこれまで見たことのなかった山本博士の素顔が現れ――……いやめっちゃイケメンなんだけど!! と心の中でツッコミを入れてしまった。
女子生徒たちの噂は本当だった。




