落ち武者とおいかけっこ
昼休みも半ばを過ぎた頃。他の階では生徒たちが楽しく過ごしているが、私の今いる階の廊下だけは人気がない。みんな山本博士の指示に従ったからだ。
「避難誘導、完了しました」
山本博士が眼鏡を押し上げながら私の横に立つ。
「この時間、このルートを通ると仮定すれば……そろそろ出る頃です」
私は緊張で手のひらがじっとりと汗ばむのを感じながら、廊下の先を見つめた。
ギシッ……ギシッ……と不自然な足音がする。曲がり角の向こうから、乱れた鎧に身を包んだ男の幽霊が現れる。髪はボサボサで、顔の半分が崩れ、黒く虚ろな目をしている。
「来たっ!」
私は駆け出した。
「真中さん、行ってください!」
山本博士が背後で声を張る。
「僕はここで他の生徒の安全を確保します!」
頷く暇も惜しく、私は振り返らずに全力で追いかけた。廊下を抜け、階段を跳ね下りる。けれど、距離は全く縮まらない。
「は、速っ! あんな重そうな鎧着てるのに……!」
幽霊は迷いもなく校舎の裏口から外へ飛び出し、木々の影に紛れて消えていった。私は校舎の出口で息を切らし、膝に手をついてぜえぜえと呼吸を整える。
その背後から、冷静な声が追いついてきた。
「……真中さん、ひょっとして走るの苦手ですか?」
「私、体育の成績はビリなの……」
そう、そもそも私は、短距離走も長距離走も得意じゃない。運動全般が不得手だ。山本博士が走らないと言うから代わりに走っただけ。現役の武士に勝てるわけがない。
山本博士は「そうですか……」と相槌を打ちながら、眼鏡のブリッジを指であげた。
「では、次は僕が追う番ですね。真中さんはここで待っていてください」
顔を上げた山本博士は太陽を見上げ、覚悟を決めたように走り去っていった。もう外だから走っていいと判断したのだろう。長距離走も短距離走も学年一位であるその背中はひどく頼もしく見える。
私は山本博士の後ろ姿を見送った後、ふうと息を吐いてその場に屈み込んだ。
校舎からは、昼休みを楽しむ生徒たちの声がかすかに聞こえる。
何やってんだろ、私……。
全力疾走なんて久しぶりにした。
足が痛いし、冷たい風を吸い込んだせいで喉も痛い。息もなかなか整わない。ご飯を食べた後だからか横っ腹も痛い。虚しい。
きっと私がこんなに頑張らなくたって、あんな落ち武者くらい、山本博士は一人でどうにかしてしまう。張り切って走って結局何の役にも立てなかった自分が恥ずかしかった。
「ニャア」
足元から小さな鳴き声がした。視線を落とすと、猫――ミナトがこちらを見上げていた。ひょこりと現れたその姿は、どこかとぼけている。
「ちょっ、何付いてきてんの」
鞄の中にしまってきたはずなのにと焦るが、猫はそんな私の心情などつゆ知らず、いつものように目をくりくりさせながら首をかしげて、ちょんっと私の靴に前足を乗せてきた。
私は小さな溜め息を吐いて猫を抱きかかえる。
風が少し冷たくなってきたが、猫の身体はほんのり温かい。柔らかい毛並みが指先に心地よくて、その背をそっと撫でた。
その時。
――ババババババババ……
どこからか、軽快なエンジン音が近づいてくる。猫の耳がぴくりと動いた。
「……え?」
私と猫はそろって音のする方を見た。
正門の方から曲がってきたのは、小型の原付バイク。そして、その運転席に――
紅葉の舞う秋風の中、バイクに乗ったヘルメット姿の山本博士が現れた。
「……えっ!?」
「お待たせしました、ミス真中」
黒いヘルメットをかぶったまま、山本博士がバイクの上でブレーキを利かせて止まった。制服の上からは安全ベスト、背中には『霊冥高 特別許可証』と書かれたプレート。
あまりに突飛な光景に、私はしばらく声も出なかった。
「な、何でバイク……!」
「落ち武者の移動速度を考慮すれば徒歩では限界があります。しかし、落ち武者とて所詮戦国時代の人間……現代の文明の利器には勝てないでしょう」
「ま、待ってよ、学校の敷地内でバイクってありなの」
「先生には、追跡のためやむを得ず原付を使用する可能性がありますと申請済みです。生徒会にも届け出済みですので安心してください。校内での運転は、緊急対応時に限り条件付きで認められているのです」
そう淡々と告げながら、山本博士はヘルメットのシールドをカチッと上げた。
てっきり一人で走って追いかけていったものと思っていた。
しかし山本博士は原付バイクを取りに行ったうえ、わざわざ私まで迎えに来たらしい。
「……そのまま追いかけた方が速いのに、何で私なんか迎えに……」
「え? 折角二人いるんですから、一人で頑張るより二人で頑張った方がいいでしょう?」
当然のように言ってのけた山本博士は、後部座席の荷台にくくりつけていたもう一つのヘルメットを外して私に差し出した。
「ほら、行きますよ、真中さん」
山本博士がこちらをまっすぐ見つめてくる。
私は何だかむず痒いような気持ちでヘルメットを受け取って装着した。少し大きめで、顎のストラップを留めるのに手間取っていると、山本博士が器用に手伝ってくれた。
ストラップがカチッと留まる音がして、私は渋々覚悟を決めた。




