最終話C 離婚の理由は
Y嗣は亡くなった。
殺されたのだ。
彼はマンションに訪ねてきたR々那とエントランスで会い、口論の末に突き飛ばされて亡くなった。もし彼が弱っていなかったら、亡くなっていたのはR々那のほうだったかもしれない。R々那に殺意はなかったと見做されたので、事故死と言ったほうが正しいだろうか。
熱冷ましのシートとアイスを買ったT佳子が戻って来たときは、もうパトカーが来ていた。
マンションの住人が通報してくれたらしい。
通報者に声をかけられて逃げたというR々那は、その日のうちに捕まった。母親のこともあって警察に目を付けられていたのだ。さすがに監視まではされていなかったけれど、所在は明らかにするよう言われていたのである。
口論の際に役立たずと罵られて、カッとなって手を出そうとしたY嗣が反撃されて突き飛ばされる形になったと聞いた義母は、いつものようにすべてをT佳子のせいにすることもなく黙りこくった。
おかげでY嗣の葬儀は静かに終わり、受取人がT佳子になっていた彼の生命保険も問題なく手にすることができた。
T佳子は義両親への譲渡も申し出たのだが、義父に遠慮された。
(あの日、彼女が来なくてY嗣さんが部屋で私を迎えてくれていたら……)
熱冷ましのシートを替えて、好きなアイスを食べさせて、誠心誠意看病をしただろう。
だけど彼が回復したら、絶対に離婚を言い出していた。
それだけは譲れない。
(子どもができない理由をお義母さんに打ち明けられなくて、私のせいみたいにされてたのはべつに良かったの。このまま一生ふたりっきりなら十分幸せだったわ)
でも浮気だけは許せなかった。
(脅されて仕方なくとか、本命を焦らせるための演技を頼まれただけだとか、嘘をついて騙してくれれば良かったのに)
黙って隠していることはあったものの、Y嗣はT佳子に嘘をつかなかった。
真実を告げることが誠意だと思っていたのだ。
不器用で愚かな男性だったのだ。T佳子はそこも好きだった。
(……好きだから好きだから好きだからっ、愛しているから浮気されたことが許せなかったんじゃない!)
浮気は『心の殺人』と言われている。
愛しているからこそ受ける傷は深く重い。
T佳子は今もY嗣を愛している。離婚が成立しても愛し続けていただろう。
他人には莫迦だと笑われるかもしれない。
それでも浮気を受け入れられないくらい、遊びとして流せないくらい、終わった過去として忘れられないくらい好きだったのだ。
葬儀が終わり、T佳子はY嗣と暮らしていたマンションの部屋を引き払った。彼がR々那を部屋に入れずにエントランスで応対したのは、T佳子を大切に思っていたからだろう。傷つけまいと考えてくれたのだ。
(だったら最初から浮気なんて……っ)
部屋の鍵を閉めた後、T佳子はバッグからハンカチを出して涙を拭った。
バッグの底には折り紙のチューリップがある。
赤いチューリップの花言葉は『感謝』。あの日、居間のローテーブルに置かれていたものだ。付き合い始めてからY嗣にもらったたくさんのものと一緒に、これもT佳子の宝物になる。
(でも……)
彼が生きていたとしたら自分は、離婚を言い出さずにはいられなかった。
愛しているからこそ、どうしても譲れないものがある。
T佳子の離婚の理由は、夫の浮気、だ。




