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TAROT BREAKER ― 星の言霊使い ―  作者: 詩韻


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第8話『鎖の先で、あなたの名を呼ぶ(Wheel of Fortune)』

Ⅰ. 導入(現実)|欠けていく日常


朝。

玄関で、澪が靴を履いた。

床はまだ冷たくて、靴底がきゅっと鳴る。音だけが、やけに鮮明だった。


「おばさん、行ってきます」


廊下の奥から、返事だけが届く。


「はいはい、気をつけてね」


声はいつも通り。

声“だけ”が。


「今日さ、講義のあと寄っていい? 新作のドリンク出たって」


「……またかよ」


「まただよ。生きてるって感じするじゃん」


軽い。

軽いまま、世界が進んでいく。


オレの右目の奥は、昨夜からずっと熱い。

熱いのに、冷たい。

瞬きするたび、視界の文字が一拍遅れて追いかけてくる。


――いや。

追いかけてくる、じゃない。


追いつけない文字が、混ざっている。

同じ画面の中に、“最後まで読めない部分”があるみたいに。


澪のスマホが、また勝手に点いた。

通知じゃない。画面だけが、ふっと明るくなって、すぐ暗くなる。


光が、呼吸みたいに膨らんで、しぼむ。


「ね。やっぱ変だよね」


「故障か? 落としたりしたんじゃないのか。そそっかしいからなぁ、澪は」


「失礼ねー」


澪は笑う。

でも、笑い方が“少しだけ”上手すぎた。

上手すぎて、澪が澪じゃない瞬間が混ざる。


家を出る前。

テーブルに置きっぱなしの、オレのスマホ。


少し、触りたくなかった。


開いたままの、澪のスレッド。

昨夜の行は、消えていない。


【送信は存在しません】


“残る”ことだけが、決まっている。

オレは画面を伏せて、ポケットに入れた。


大学へ向かう途中、スマホが震えた。

入力予測の帯が勝手に開いて、白い候補が並ぶ。


そこに、見慣れない候補がひとつだけ混ざっていた。


E


ただの一文字。

誰の名前でもない。なのに、指が吸い寄せられる。


押してしまいそうになる。

押した瞬間、世界が“呼び始める”気がした。


オレは息を止めて、画面を閉じた。


(……呼ぶな)


呼ぶ、という行為が、危険に感じた。

名前にする前のものまで、引きずり出しそうで。



Ⅱ. 星の兆し|呼ばれる側と、呼ばれない側


部屋に戻ると、しおぽんがソファの端に座っていた。

いつもの跳ね方がない。いつもの笑いがない。


「シオンさま」


「どうした」


しおぽんは、オレじゃなくて、オレの右目のほうを見る。

見てるというより――聞いている。


「……ねぇ。しおぽん、きょう、入口の音が薄いの」


「薄い?」


「うん。……近すぎるとね、音って、薄くなるぴょん」


尻尾がふわっと動きかけて、途中で止まる。

止まるのが、怖かった。


「ここから先、しおぽん、言いすぎると壊しちゃう」


「何を」


しおぽんは頷かない。否定もしない。

中間のまま、言葉を置く。


「……名前のところ」


右目の奥が、また一段だけ冷える。


「名前、って……」


「しおぽんね、答え持ってないの。

 でもね――呼ばれる側と、呼ぶ側が、ずれてきてる」


どれも、少しずつおかしい。

でも、おかしさの種類は同じだ。


回っているはずのものが、

いつもと違う位置を通っている。


澪の笑い方。

スマホの点灯。

消えない行。


(……同じ場所だ)


「配信、やめるか?」


しおぽんは首を振らない。

ただ、目を伏せる。


「閉じこもっても、外は変わらないぴょん。

 もう、動き出してる」


オレは黙る。

黙ったまま、配信の準備を始める。



Ⅲ. 接続|配信(名前の空白)


配信ボタンを押す。

いつもの画面。いつもの空気。


……のはずなのに、今日のコメント欄は“白い”。

眩しいんじゃない。温度がない。

冷たい白。紙の裏みたいな白。


《こんばんは》

《今日も静か?》

《しおぽんいる?》


普通の行が流れる。

その中に、ひとつだけ、名前のない行が落ちる。


《嫌われてもいいから、欲しい》


ID表示が、少し遅れて浮かぶ。

一瞬、空白。

リスナーには戻ったように見えた。


しおぽんが、画面から目を離したまま、小さく言う。


「……名前、ない」


オレは頷くしかない。

名前がない言葉は、誰の責任にもならない。

だから、強い。強すぎる。


突然、画面に見たくない文言が一瞬だけ浮く。


《送信は存在しません》


消える。浮く。消える。

まばたきの裏側にだけ残るみたいに。


オレは深く息を吸う。

今日、正しさを言ったら終わる。

正しさは、居場所を奪う。


「……今日は、ひとつだけ言う」


コメント欄が、少しだけ静まる。


「名前がなくても、言葉は届く。

 でも――名前のない声が連なり始めると、

 それはもう、誰のものでもなくなる。


 分からなくなったものは、戻れない」


しおぽんが目を閉じる。

右目の奥が、ひりついた。


(……来る)



Ⅳ. 相談者の影|“呼ばれる”ことへの恐怖


相談者は、今日はすぐに入ってきた。


数字だけのID。

初期アイコンのまま。

名前らしいものは、どこにもない。


コメントは早かった。

誰かの言葉に被せるみたいに、

流れが途切れる前に、すぐ次が来る。


「名前を呼ばれるのが怖い」

「呼ばれたら、もう戻れない気がする」

「呼ばれないままなら、まだ……安全」

「でも、呼ばれたい気もする」

「それが、いちばん嫌」


言葉は迷っていない。

なのに、送り主だけが見えない。


欲しい、でもない。

拒んでいる、わけでもない。


ただ、

名前が付く瞬間を、怖がっている。


呼ばれたら、その形で決まってしまう。

“決まる”ことが、戻れない気がしている。


匿名のままなら、まだ、どこにでも行ける。

誰にでもなれる。


でも、誰にも呼ばれないままなのも、耐えられない。


だから今日も、名前を置かずに言葉だけを投げてくる。

“呼ばれる”ことが恐怖。


オレの喉が乾く。

右目が冷たい。


(……これは)


オレは、言いすぎないように言う。


「……呼ばれたくないのは、悪じゃない。

 怖いって思うのも、悪じゃない」


画面が、少し静まる。


「ただ――その怖さを、誰かの言葉で守ろうとしたら、危ない」


一拍遅れて、文字が出る。


「じゃあ、どうしたら」


オレは、すぐには返さない。

この場所で“答え”は、鎖になる。


「……答えは、いま出さなくていい。

 誰かが決めた答えを受け取った瞬間、

 それは“あなたの思い込み”になって、

 やがて、名前みたいに残る」


沈黙。


沈黙の中で、画面の明るさだけが、わずかに落ちた。



Ⅴ. 星界への引き込み|呼名未遂


【名のない沈黙の詩】


『受け取って呼ばれたら、

 私は私じゃなくなる気がする。』


黙る。

言葉を足せば、説明になる。

でも今、説明は鎖になる。


オレは息をひとつ。


「詩は形、

 韻は響き、

 祈は還り」


右目の奥が、熱くなる。

熱いのに、冷たい。


視界の端で、澪の横顔が――一瞬だけ、知らない輪郭に触れる。

触れただけで、すぐ戻る。

戻ったのに、心臓だけが遅れた。


(……今、何を見た)


「タロット展開――」


カードは三枚。


コンパス:The Lovers

トリガー:Page of Cups

ルート:Judgement


いつも通りに読むつもりだった。

紙が擦れる音。画面の向こうの息。


Judgementに指が触れた瞬間、指先の感覚が薄くなる。


落ちるでも、浮くでもない。

ただ――指が、先へ行かない。


意味が来ない。

代わりに、嫌な確信だけが喉の奥に引っかかる。


――ここで読めば、戻らない。


そう“思ってしまった”瞬間、もう指は動かなくなっていた。


しおぽんの視線が、カードじゃなく足元へ逸れる。


「……ねぇ。

 それ、星の音、鳴らない」


鳴らない。

いつも鳴るはずのところで。


しおぽんの尻尾が固まる。


「……ねぇ。

 “呼ぶ”の手、増えてる」


オレは指を伸ばす。

触れない。触れたら、確定する。


(まだだ)


部屋の輪郭がほどける。

白い庭は来ない。

今日の裂け目は、湿っている。


「星界ゲート――開放」



Ⅵ. 星界対話/戦闘|名前の手前で、止める


落ちた瞬間、肺の奥まで「湿った闇」が流れ込んできた。

足元は重油のように粘り気のある水面。波紋ひとつ立たないのに、逃げ場の方向だけが、霧が巻くように消失していく。


視界の真ん中を貫くのは、巨大な鎖。

それは出現したのではない。最初からそこに「背骨」のように存在していたのだ。


鎖の先は、虚空にある「見えない喉」へと繋がっている。


(……呼ぶな)


しおぽんの声が、脳を直接震わせる。


鎖がのたうち、水面を叩いた。

跳ね返る水しぶきは液体の形をなさず、無数の「意味を持たない音節」となって空中に散る。

金属音ではない。

何千人もの「名前を呼ぼうとする吐息」が重なった、耳障りな倍音。


「……ほしい」


鎖の向こう、相談者の圧が膨れ上がる。

その声には、毒のような甘さが混じっていた。音色だけが、澪に、あるいはかつての誰かに似て。


「澪」という素材を継ぎ接ぎして作った、偽物の輪郭が闇の中でうごめく。


「……呼んで。呼べば、終わるから」


喉の奥に、言葉の楔が無理やりねじ込まれる感覚。

オレの口を借りて、相談者の「名」を完成させようとする強制力。


その「名」を呼んだ瞬間、相談者は救われるかもしれない。

だが同時に、その人は「その名前」という檻に一生閉じ込められる。


(……やめろ。勝手に、完成させるな)


オレは奥歯を噛み締めた。


救いとは、正解を与えることじゃない。

名前に殺される前に、その「一歩手前」の混沌を維持しなければならない。


「言の葉は鍵、星の光は道しるべ。

 ステラン、ステラン、ステラン――」


右目の奥で、冷たい熱が爆発した。


「来臨せよ、汝――シオリエル!」


闇が裂け、シオリエルが降り立つ。

白銀の髪が星屑を撒き散らし、重苦しい湿り気を一瞬で焼き払う。だが、鎖はまだ切れない。

それどころか、シオリエルの光を反射して、さらに鋭利な「名への導線」となってオレの喉元へ迫る。


「呼んで。呼べば、戻れる……っ!」


相談者の叫び。


オレの手が、無意識にJudgement(審判)のカードへ伸びる。

これを使えば、「正しい結末」が確定する。混乱は収まり、鎖は消えるだろう。


――だが、それは相談者が望んだ「匿名という自由」の死だ。


「……断る」


オレはカードを裏返し、水の底へ沈めた。


ギアを一段、いや、底の見えない深淵へと叩き落とす。

救うのではない。保留する。名付けられる前の、何者でもない夜を。


「今ここに新たな生命の名を──

 ステラン、ステラン、ステラン──

 星潮を纏いし大いなる化身、汝の名は──

 アクア・ギア:シオリエル!」


轟音。

水面が爆ぜ、膨大な質量の水が鎖を飲み込んでいく。


物理的な破壊ではない。

情報の、意味の、名前の「洗い流し」。


鎖の圧が溶けていく。

誰かの口を借りて完成しかけた残酷な「正解」が、泡となって消えていく。


「封命完了」


世界が静まる。

相談者の「呼ぶ権利」だけが、凍りついた星のように、誰の手にも触れられない場所で輝いていた。


湿った闇が剥がれ、

部屋の空気が、肺に“正しい形”で入り直してくる。


いつもの部屋、いつもの配信画面。

しおぽんがいつも通りいる。

全部、ある。


――あるのに。


オレは、ふと引っかかる。


(……何だ)


胸の奥に、軽い空白。

痛みでも、違和感でもない。

思い出そうとして、引っかからない感覚。


澪の声が、頭をかすめる。


『新作のドリンク出たって』


そうだ。

朝、そう言ってた。


(……名前)


思い出そうとする。


味の想像はできる。

色も、季節も、あの店の場所も分かる。


でも。


名前だけが、ない。


そこだけが、

最初から削り取られていたみたいに、ノイズが走った。


オレは一度、目を閉じる。


(……代わりに、か)


星界で、

名前を“決めなかった”。


固定しなかった。

呼ばせなかった。


――その分、

オレの中の“名前”が、一つ落ちた。


誰にも気づかれない。

生活に支障もない。


それでも確かに、

もう戻らない。


一つずつ消えていく予感。


オレは、何事もなかった顔で、息を整えた。




Ⅶ. 新しい一歩|未完了の選択


戻っても配信は続いている。

コメント欄は流れている。

何もなかったみたいに。


「……ぐっ」


右目が痛い。

痛いというより、“思い出したくない音”が眼球の裏に貼りつく。

剥がれないまま、熱い。熱いのに、冷たい。


相談者から短い行が来る。


「今日は、呼ばれないままでいようと思います」

「怖いって言っても、ここにいていいですか」


オレは頷くしかない。


「……いい」


それ以上は言わない。

言ったら、安心の強要になる。


「タロットクローズ。……大丈夫だよ」


画面の向こうで、誰かの息が戻る。


――その直後。


ポケットの中で、スマホが一度だけ熱を持つ。

触れたくなかった重さが、指に戻ってくる。


澪のスレッドが、勝手に開いていた。


《送信は存在しません》


星界の文じゃない。

現実に残っている、同じ一行。


誰も固定されていない。

でも、名へ行く道だけが、まだ鋭い。


画面の向こうで、誰かが息を整える。

その反対側で、別の誰かが息を止めた気配がした。



Ⅷ. 澪の断片|思い出してはいけない形


夜。

部屋の明かりを点ける気になれなかった。


カーテンの隙間から差し込む月の光が、床に長い爪跡のような影を落としている。

澪は、板張りの床に膝を抱えて座っていた。冷たさがジーンズ越しに伝わってくるが、その感覚だけが、自分がここにいる唯一の証拠に思えた。


膝の上には、古い、あまりに古いノート。


「……これ、私なの?」


表紙を撫でる。

指先に残る紙のざらつきが、まるで自分の皮膚の一部であるかのように馴染んでしまう。

それが、ひどく恐ろしかった。


書いた記憶はない。

なのに、指が次のページを知っている。


ぱらり、と一頁。


幼い、けれど切迫した筆致で書かれた文字。


『こんや しおんが ほしの――』


そこで言葉が断絶している。

インクの染み。あるいは、誰かが無理やりページを閉じたような跡。


その空白を見た瞬間、澪の心臓が不自然なほど大きく跳ねた。


(……思い出して。でも、絶対に口に出さないで)


相反する衝動が、胸の内で泥のように混ざり合う。

「懐かしい」と感じた次の瞬間、胃の底からせり上がるような、正体不明の拒絶反応が喉を焼く。


この続きを「読んで」しまったら、今の自分の形が、砂の城みたいに崩れてしまう。


「やだ……」


声が震えた。

ノートを抱きしめる腕に力が入る。


自分の中に、自分ではない誰かがずっと隠れていたような。

その「誰か」が、扉の向こう側から爪を立てて、自分の名を呼ぼうとしている。


『まんげつのよる また きかせて』


最後の一行。

それは約束なのか、それとも呪いなのか。


「……まんげつのよる、また……きかせて……?」


呟いた言葉が、闇に溶ける。

返事はない。


ただ、耳の奥で、誰かがパチンと指を鳴らしたような乾いた音が響いた。


呼ばれる準備が、整ってしまった。


自分という器の中に、別の名前が注ぎ込まれるのを待つだけの、空っぽな時間が始まった。



Ⅸ. 余韻/次回予告|名を呼ぶ権利


深夜。

澪は、いつの間にかソファに横になっていた。

テレビの音だけが、部屋の角に溜まっている。


澪のスマホが、また点く。

通知音は鳴らない。

なのに、画面だけが“呼ぶ”。


オレのスマホも同時に点いた。


澪のスレッドじゃない。

見覚えのないスレッドが、勝手に開く。


送信者名――途中までしか表示されない。


Ete—


次の瞬間、表示が揺れて、空白に戻る。


本文は、一行……に、なりきらない。


「……呼ばないなら」


一拍、空白。


「……私が」


加工はない。

似ているのは澪の音色だけ。

整いすぎているぶん、冷たい。


オレの右目の奥が、ひどく冷える。

冷えたまま、熱が走る。


しおぽんが、笑わないまま言う。


「ねぇ……シオンさま。

 “呼ぶ側”、決まりそう」


オレは答えない。

答えたら、名前になる。


画面が、暗転する。


次回

第9話

『呼ばれなかった名前が、あなたを選ぶ(——)』

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