第4話『声のない善意、拾われない祈り ― 照らさない灯(The Hermit)』
Ⅰ. 導入(現実)|低温
朝が来たことは、カーテンの色で分かった。
部屋の中は静かで、音がするのは冷蔵庫の低い唸りだけ。
右目の奥が、鈍く重い。痛みというより、欠けた重さ。
机の端にあるタロットの箱は、触れなくても在るのが分かる。
(……今日は、配信しない)
理由を作らない。
作った瞬間、言葉が勝手に“正しい顔”をする。
しおぽんは、いない。
呼ばなかった。
コーヒーの苦い匂いだけが、部屋に残った。
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Ⅱ. 星の兆し|起きなかったこと
スマホを開く。通知は少ない。
相談フォームに、未送信が一件。
件名も本文も、空白。
送信時刻だけが昨夜のまま、残っている。
(……書こうとして、やめた)
ノイズはない。
星の声もない。
何も起きない。
だからこそ、起きなかったことが重い。
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Ⅲ. 接続|ふだんの訪問
夕方。
インターホンより先に、ノックが二回。
迷いのない音。
「……開いてる」
鍵は、いつもそうだった。
「おじゃまー」
澪が入ってくる。
同じ大学で、同じ講義を受けて、たまにこうして勝手に来る。
その“当たり前”だけが、やけに眩しい。
トレンチコートから外の匂いが落ちる。
雨上がりのアスファルト、駅の風、少し甘い洗剤。
髪は濡れていないのに、湿った空気が一緒に部屋へ入ってくる。
澪は靴を揃えて、コンビニ袋を机に置いた。
ビニールが擦れる音。
それだけで、部屋が現実に戻る。
「今日、講義どうだった?」
返事を待たずに冷蔵庫を開けて、閉める。
「また買い忘れてる」
責める声じゃない。確認する声。
オレは曖昧に笑うふりをして、できなかった。
澪の視線が机の端――タロットの箱を一度だけかすめる。
触れない。
触れないまま、そこがあることだけを認めて、目線を戻す。
その距離感が、澪だ。
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Ⅳ. 相談者の影|二人のあいだの沈黙
「最近さ」
澪が椅子に腰かける。足を組まない。昔からそうだ。
「夜、起きてる?」
「……そうか?」
「うん。顔が、そう」
一拍。
「占い、まだやってる?」
言い方は軽い。
でも、逃げ道がない。
「……信じてない」
オレの声は、低い。
澪は少しだけ笑う。
優しくも冷たくもない、生活の笑い。
「知ってる」
澪は続けない。
“当たる”ことの話もしない。
昔のことも言わない。
言えば、こちらへ踏み込んでしまうから。
「配信、してるでしょ」
断定じゃないのに、外れない言い方。
「……見てないけど」
澪は、すぐに言う。
「見る気もない」
一拍置いて、
「見たら、あんたの顔――昔のままになるから」
喉が詰まる。
子どもの頃、当てて、褒められて、嬉しかった顔。
それが、誰かの人生の上に乗っていた顔。
澪は、それを知ってる。だから見ない。
否定じゃない。踏み込まないための線引き。
澪が立ち上がる。
「止めろとも、やめろとも言わない」
「……うん」
「でもさ」
澪が振り向かずに言う。
「あんた、自分で選んでるよね」
責めじゃない。
慰めでもない。
ただの観測。
「逃げてないのも、分かってる」
玄関で靴を履く音。
ドアノブが回る音。
「だから、ここには来る」
一拍。
「でも、そっちの世界までは行かない」
ドアが閉まる。
澪の匂いが、部屋から薄れていく。
生活の匂いだけが、すぐに現実へ溶ける。
オレは追わない。
(追わなかった)
それだけの事実が、胸に残る。
すれ違い始めたんじゃない。
最初から、線はあった。
それを、今日――確認しただけ。
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Ⅴ. 星界への引き込み|開かない
夜。
スマホが震える。
《ここ、もう息できない》
名前は、ない。
オレは送信欄に指を置く。
言葉を打ちかけて、消す。
(返したら、また“正しい言葉”になる)
しおぽんがいない静けさの中で、タロットの箱だけが重い。
オレは箱を開けないまま、カードを三枚だけ引いた。
占いじゃない。空気を確かめるための、杭。
手元に置く。
コンパス:The Hermit
トリガー:Two of Swords
ルート:Six of Cups
息を吸う。
起動句が喉の奥に引っかかる。
「詩は形、
韻は響き、
祈は還り。」
「タロット展開――」
……でも、ゲートは開かない。
開けるべきじゃない。
今夜は、呼ばれていない。
星界は、沈黙する。
沈黙は、答えじゃない。
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Ⅵ. 対話|拾えないまま置く
【名のない沈黙の詩】
『息ができないのに、助けてと言えなかった。
ここにいるのに、名前がない。』
オレは、ふと考える。
いま、この画面を読んでいる誰かも、
送信欄に指を置いたまま、
何も送らずに閉じた夜があるんじゃないか、と。
名前を出さず、声を出さず、
それでも確かに「ここにいた」夜。
オレは、書き換えない。
綺麗にしない。
救いの形にしない。
ただ、言う。
「……届かない夜もある」
それは許しじゃない。
諦めでもない。
現実の確認。
そして、胸の奥で決める。
(それでも、逃げない)
澪の世界は、ここに来ない。
来ないまま、切れない。
オレの世界は、もう戻れない。
でも――
それを選んだのは、オレだ。
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Ⅶ. 新しい一歩
送信欄を閉じる。
代わりに、デッキをそっと撫でて、閉じる。
「タロットクローズ。」
言葉は軽くない。
軽くしない。
右目の奥が、静かに痛む。
欠けは、埋まらない。
それでも、置く。
「大丈夫だよ」
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Ⅷ. 余韻/次回予告
画面の暗転の中で、もう一度だけ通知が震えた。
《……見ないでくれて、助かった》
誰からかは分からない。
名前は、ない。
オレはスマホを伏せた。
次回
第5話『残された灯、届かない声(Temperance)』
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