愚かな娘
メルクリウスの黒いコートが、夜風を含んで静かに揺れる。
彼は膝をついたまま、瓦礫に頭を預けるリリスの瞳を覗き込んだ。
その深淵のような双眸には、冷徹な指導者としての理性と、かつての恋人の娘を思う男としての情が、激しく渦巻いている。
指先がリリスの白い頬に触れる。
冷たい。
生命の灯火が消えかけ、死の淵にある肌の感触だ。
「……愚かな娘だ」
彼の唇から零れたのは、嘆息にも似た低い言葉であった。
「その言葉が何を意味するか、理解しているのか」
メルクリウスは、エヴァの腕の中で弱々しく息をするリリスに対し、残酷な事実を突きつける。
「この人間を見逃せば、貴様は我ら魔族に仇をなした者として認定される。同胞を殺した人間を救い、一族の悲願を妨げた裏切り者として、未来永劫、地の果てまで追われることになるのだ」
彼は言葉を区切り、リリスの瞳を見据える。
「魔族領にも、人間界にも、貴様の居場所はなくなる。誰からも愛されず、誰からも守られず、孤独と絶望の中で朽ち果てることになる」
メルクリウスの声には、恫喝ではなく、切実な問いかけが含まれていた。
「それでもよいのか。アイリスの子よ、それでも、この人間を生かしたいと願うのか」
リリスは、重いまぶたを僅かに持ち上げた。
視界は既に暗く、色彩を失っている。
痛みも、寒さも、遠い世界の出来事のようだ。
ただ、目の前の男の悲しげな声だけが、心臓に響く。
裏切り者。
敵。
孤独。
それらは、リリスにとって新しい恐怖ではない。
娼館で、奴隷として、ずっと味わってきた冷たい味だ。
それに引き換え、エヴァの腕の温かさはどうだ。
自分を庇い、走り、涙を流してくれたこの人の温もりは、何物にも代えがたい光だ。
リリスの唇が、ゆっくりと動いた。
「……はい」
迷いのない、透き通るような肯定。
「……御慈悲……ありがとう……ございます……」
彼女は微笑んだ。
血と泥に汚れた顔で、聖女のように穏やかに。
自分の破滅と引き換えに、大切な人の命を拾えるなら、それは幸福な取引だと言わんばかりに。
メルクリウスは息を呑んだ。
その笑顔。
絶望の中で咲く花のような、無垢で強靭な微笑み。
それは記憶の中にあるアイリスの笑顔と、痛いほどに重なる。
ねえ、メル。
どんなに辛くても、誰かを愛することはやめないわ
かつて愛した女の言葉が、脳裏に蘇る。
メルクリウスは奥歯を噛み締め、俯いた。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、湧き上がる感情を抑え込む。
彼はこの反撃戦の指揮者だ。
人間への復讐を誓い、同胞を率いる指導者だ。
だが、今この瞬間だけは、ただ一人の男として、アイリスとの誓いを守ることを選ぶ。
「……よかろう」
彼は立ち上がった。
背を向け、夜空を仰ぐ。
「契約は成立だ。その代価、確かに受け取った」
メルクリウスは、凍りついたままのエヴァへと視線を向けた。
その瞳から感情の色は消え、絶対的な力を持つ魔族の威厳だけが残っている。
「人間よ。貴様がこの娘に何を与え、何を奪ったのか、我には分からぬ」
彼は右手を掲げた。
空間が歪み、複雑な幾何学模様の魔法陣がエヴァとリリスの足元に展開される。
「だが、魔族は約束を守る。一度交わした契約を違えることは、我らの誇りが許さぬ」
魔法陣から蒼白い光が立ち昇り、二人を包み込む。
「去れ。戦火の及ばぬ場所へ。二度と我らの前に現れるな」
空間転移魔法【虚空の回廊】。
座標は都市の外、安全な森林地帯へ設定されている。
エヴァは光の中で、メルクリウスの背中を見つめた。
恐怖の対象であるはずのその背中が、今は酷く孤独で、小さく見えた。
光が強まり、視界が白く染まっていく。
その寸前、リリスの唇が微かに動いた。
「……ありがとう……おじさま……」
風に乗って届いた、か細い感謝の言葉。
メルクリウスの肩が、ピクリと震えた。
次の瞬間、光が弾け、エヴァとリリスの姿は掻き消えた。
残されたのは、崩れた石壁と、血の跡だけ。
静寂が戻った裏口に、メルクリウスは一人立ち尽くす。
彼は何も言わず、ただ一度だけ深く息を吐き出した。
そして、踵を返す。
マントを翻し、平伏する魔狼たちに目もくれず、闇の中へと歩き出す。
その背中には、復讐者の仮面が再び張り付いていたが、その奥底に刻まれた古傷は、新たな痛みと共に深く疼いていた。




