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逃げ場はない

瓦礫と化したホールに、静寂は訪れなかった。


オーギュストの巨大な亡骸を見下ろすメルクリウスの瞳には、感情の波紋ひとつ浮かんでいない。


彼は無造作にその死体を跨ぎ、奥で震える冒険者たちへと視線を向けた。


「進め。石一つ、蟲一匹残すな」


抑揚のない声が、死刑判決のように響き渡る。


隣に立つゼクスが、蒼く凍りついた剣を振るった。


「御意」


ゼクスの足元の氷が蠢き、形を成す。


大気中の水分が凝固し、鋭い牙と爪を持つ半透明の獣――氷の猟犬が数体、具現化する。


「狩れ。逃げる者の背を喰らい尽くせ」


猟犬たちは音もなく床を蹴り、エヴァが消えた方角、そして逃げ惑う冒険者たちの背中を追って散開した。


エヴァは走った。


肺が焼けつくような痛みを訴え、魔力が枯渇した身体は鉛のように重い。


腕の中には、意識を失ったリリス。


その身体は温かく、血の匂いと、微かな植物の青臭さが混じっている。


「はぁ……はぁ……ッ!」


背後から、仲間の断末魔が聞こえる。


肉が裂ける音。


氷が砕ける音。


オーギュストの最期の気配が消滅した感覚が、背筋を凍らせる。


だが、エヴァは振り返らない。


振り返れば、足が止まる。


止まれば、リリスも死ぬ。


「生きろ」という老兵の遺言だけが、切れかけた彼女の精神を強引に繋ぎ止めていた。


厨房の奥、棚の裏に隠された狭い通路へ飛び込む。


壁が崩れかけ、天井から砂埃が舞い落ちる暗闇の中を、エヴァはリリスを庇うように屈みながら進んだ。


通路の出口、ギルドの裏口にあたる鉄扉が見えた。


希望の光ではない。


扉の隙間から、赤い松明の光と、獣の唸り声が漏れ出している。


エヴァは足を止め、息を殺して隙間から外を覗いた。


そこには、既に数体のオークと魔狼が展開し、逃げてくる獲物を待ち構えていた。


裏口は封鎖されている。


計算された包囲網。


魔族は最初から、逃げ道など用意していなかったのだ。


「……っ」


エヴァは音を立てずに後退りし、通路の横にある崩れた石壁の陰に身を滑り込ませた。


逃げ場はない。


前には待ち伏せ、後ろからは追っ手。


完全な袋小路。


ズズッ……。


通路の奥から、鼻を鳴らす音が近づいてくる。


ゼクスが放った氷の猟犬か、あるいは血の匂いを嗅ぎつけた魔狼か。


冷たく湿った空気が、エヴァのうなじを撫でる。


リリスの血が、彼女の服に染み込んでいる。


その濃厚な鉄の匂いは、捕食者にとっては極上の道標だ。


エヴァはリリスを強く抱きしめ、自分の体温でその匂いを隠そうとした。


震える手でリリスの口元を塞ぐ。


自分の呼吸すら止める。


すぐそこの曲がり角から、青白い冷気と共に、飢えた獣の荒い息遣いが聞こえてきた。


爪が石床を削る音が、心臓の鼓動と重なる。


見つかる。


殺される。


死の気配が、物理的な重圧となって二人の頭上にのしかかった。

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