さあ、来い
石畳に広がる鮮血が、冷たい空気の中で湯気を立てる。
リリスの体は動かない。
背中に穿たれた穴から、ドス黒い呪いの残滓が溢れ出し、白い肌を腐食していく。
エヴァはその小さな体を抱きしめ、ただ震えていた。
声が出ない。
治癒魔法を唱えようとする唇が、恐怖と絶望で凍りついている。
目の前には、死神が立っていた。
黒い革鎧を纏った「黒牙」の男が、血に濡れた短剣を無造作に振り上げる。
感情のない瞳が、エヴァと、彼女の腕の中で事切れたかのように動かない少女を見下ろす。
「任務完了」
男が呟く。
短剣が振り下ろされる。
エヴァは目を閉じた。
守れなかった。
この子も、ギルドも、何もかも。
刃の切っ先が、エヴァの眉間へと迫る。
ドゴォォォンッ!
突如、雷が落ちたような轟音がホールを揺るがした。
エヴァが目を開ける。
目前にあったはずの死神の姿がない。
代わりに、ホールの壁が爆散し、瓦礫の山の中に黒い革鎧の男が埋もれているのが見えた。
首があり得ない方向にねじ曲がり、胸部は陥没して原形を留めていない。
即死だ。
「な……?」
残る二人の「黒牙」が、驚愕に目を見開き、距離を取る。
土煙が舞う中、重い足音が響く。
ザッ、ザッ、ザッ。
石床を踏み砕くごとき重量感。
煙を切り裂き、一人の男が姿を現した。
全身にオークやゴブリンの返り血を浴び、赤黒く染まった歴戦の巨躯。
手には身の丈ほどもある巨大な鋼の塊――大剣「断崖」が握られている。
オーギュストである。
彼はリリスとエヴァを背に庇う位置で足を止め、「黒牙」たちを睨みつけた。
その右眼は怒りで血走り、古傷のある頬が引きつっている。
「俺の庭で、随分と好き勝手をしてくれたな」
腹の底から響くような低音が、空気をビリビリと震わせる。
オーギュストが大剣を片手で軽く振るうと、刀身に付着していた血糊が半円を描いて床に飛び散った。
「貴様……!」
黒牙の一人が呻く。
彼らは理解した。
この男は、これまでの雑魚とは違う。
魔導級である自分たちを一撃で屠る力を持ち、かつ、この場の支配者としての圧倒的な「格」を備えている。
オーギュストは一歩、前へ出た。
「その薄汚い足をどけろ。そこは、俺の部下が眠る場所だ」
部下。
その言葉が、エヴァの耳に届く。
彼女は呆然と、オーギュストの広い背中を見上げた。
この人は、魔族の血を引くリリスを、部下と呼んだのか。
「殺せ! 危険因子だ!」
残る二人の黒牙が同時に動いた。
一人は影に潜り背後へ、もう一人は正面から魔導鎖鎌を投擲する。
速い。
常人なら視認すら不可能な連携攻撃。
だが、オーギュストは動じない。
「温い!」
一喝。
彼は大剣を水平に薙ぎ払った。
正面から迫る鎖鎌が、鋼鉄の質量によって弾き飛ばされる。
その遠心力を利用し、彼は回転しながら大剣を背後へと振り抜く。
ガギィン!
影から飛び出そうとした暗殺者の短剣が、大剣の腹で受け止められる。
オーギュストはその体勢から、強引に柄を押し込んだ。
「ぐぅっ!?」
暗殺者が悲鳴を上げ、吹き飛ばされる。
技術も、速さも、小細工も関係ない。
ただ圧倒的な膂力と、積み重ねた経験による勘が、全ての理屈をねじ伏せる。
オーギュストは敵に追撃をかけず、肩越しにエヴァを怒鳴りつけた。
「何をしている、エヴァ!」
エヴァがびくりと肩を震わせる。
「そいつはまだ死んでいない! 治癒師なら手を動かせ! 立って戦え!」
その声は、優しさなど微塵もない、戦場における指揮官の命令だった。
だが、その厳しさこそが、エヴァの凍りついた思考を叩き割った。
まだ、生きている。
リリスは死んでいない。
エヴァの瞳に光が戻る。
彼女はリリスの体を横たえ、震える手をその背中の傷口にかざした。
「光よ……癒せ……!」
魔力はほとんど残っていない。
だが、やらなければならない。
オーギュストは再び前を向き、構え直した二人の暗殺者を見据える。
「安心しろ。ここから先は、一匹たりとも通さん」
彼は大剣を中段に構え、獰猛な獣のように口元を歪めた。
「さあ、来い。地獄の底まで付き合ってやる」




