それでも…守りたい
頭上の石盤を隔てた世界が、悲鳴を上げている。
轟音。
衝撃。
そして、何かが崩れ落ちる重苦しい音。
地下牢の冷たい空気さえもが震え、天井の隙間から細かな砂塵が降り注ぐ。
リリスはその震動を、硬い石床に押し付けた頬と、枷に繋がれた四肢で直接受け止めていた。
爆発音が近い。
真上で起きている。
ギルドが燃えている。
誰かが叫んでいる。
その声は、かつて「煤の底」で聞いた断末魔の響きと同じだ。
エヴァかもしれない。
オーギュストかもしれない。
あるいは、名も知らぬ若い冒険者か。
想像が脳髄を焦がす。
メルクリウスの宣告が、現実という鉄槌となって降り注いでいる。
「慈悲はない。皆殺しだ」
リリスは唇を噛み切らんばかりに強く閉ざした。
待っていてはだめだ。
誰も助けには来ない。
奇跡など起きない。
神がいるとすれば、それは残酷な傍観者であり、救済の手を差し伸べることはない。
私が動かなければ、皆死ぬ。
リリスはゆっくりと、痛む体を起こした。
魔封じの枷が擦れ、冷たい金属音を立てる。
術式が紫色の光を放ち、体内を巡ろうとする魔力を焼き尽くすような鈍痛を与える。
力が入らない。
指先一つ動かすのにも、鉛を持ち上げるような労力を要する。
この鎖は、魔族を封じるための絶対的な檻。
解錠する鍵はない。
術者を倒す術もない。
ならば、どうする。
答えは一つしかない。
肉体という器を壊す。
この枷よりも先に、自分の体を破壊する。
骨が砕けようと、肉が削げようと、この輪から抜け出せればいい。
リリスの瞳から、怯えの色が消えた。
代わりに宿ったのは、狂気にも似た静謐な覚悟。
かつて母を守れなかった無力な少女は、もういない。
ここにあるのは、痛みを燃料として燃え上がる、一つの意志だ。
リリスは左手首の枷に視線を落とした。
鉄の輪は手首の太さに合わせてきつく締められ、隙間などない。
彼女は深く息を吸い込み、肺に熱い空気を満たした。
そして、左腕を後方へ、壁に固定された鎖の基部へ向けて全力で引いた。
ガチャン。
鎖が張り詰め、鉄輪が手首の骨に食い込む。
痛い。
皮膚が擦り切れ、鮮血が滲む。
だが、足りない。
これでは抜けない。
リリスは歯を食いしばり、さらに体重をかけて引いた。
「ぐ……っ!」
骨と鉄が擦れ合う、嫌な音が鼓膜を打つ。
手首の関節が悲鳴を上げる。
魔封じの術式が反応し、焼けるような激痛が神経を逆撫でする。
構わない。
痛みなど、失う恐怖に比べれば些細なものだ。
エヴァが死ぬかもしれない恐怖に比べれば、この程度の痛みは安らぎですらある。
リリスは、自身の左手の親指を、右手の平で無理やり内側へ折り曲げた。
関節を外す。
ボキリ、と乾いた音が響く。
激痛が視界を白く染める。
脂汗が額から噴き出し、目に入ってしみる。
呼吸が荒くなり、嗚咽が漏れそうになるのを喉の奥で押し殺す。
次は手首だ。
彼女は外れた親指を巻き込み、握り拳を作ることさえできない変形した手で、再び鎖を引いた。
全体重をかける。
足を踏ん張り、背中を反らせ、渾身の力で引く。
「あああああああっ!」
叫び声と共に、手首の骨が軋む。
皮膚が裂け、肉がめくれ上がり、白い骨が覗く。
血が噴き出し、黒い鉄の枷を赤く染め上げる。
魔族の血が持つ再生能力が働こうとするが、枷の術式がそれを阻害し、傷口は再生と破壊を繰り返す。
その循環が生み出す苦痛は、地獄の業火に焼かれるようだった。
だが、リリスは引くことを止めない。
むしろ、その痛みこそが、自分が生きている証であり、戦っている証であると認識する。
骨よ、砕けろ。
肉よ、千切れろ。
私を繋ぎ止めるものなど、この世界には何一つない。
メキリ。
湿った破壊音が響いた。
手首の骨が砕けた音だ。
同時に、変形した手が、ぬるりとした血液を潤滑油にして、鉄の輪を通過した。
「……はっ、ぁ……!」
左手が解放された。
だらりと垂れ下がった手首は、見るも無残な形に変形し、血が滴り落ちている。
リリスは激痛に震えながらも、荒い息を吐き、口元を歪めて笑った。
できた。
抜けた。
まだ、右手が残っている。
両足もだ。
彼女は動かない左手を床につき、今度は右手首の枷に視線を向けた。
躊躇はない。
一度経験した痛みだ。
次はもっと速く、もっと強くできる。
リリスは右手の親指を掴み、一気にねじり上げた。
時間は、痛みと共に流れた。
どれくらいの時間が経過したのか、リリスには分からない。
ただ、地下牢の床には赤黒い血だまりが広がり、四肢の枷はすべて空になっていた。
リリスは床に伏し、喘いでいた。
両手首は砕け、足首は皮膚が剥がれて肉が露出し、立つことさえままならない。
だが、彼女は顔を上げた。
その瞳は、深淵の闇を宿したかのように暗く、そして鋭く光っていた。
「行か……なきゃ……」
彼女は血まみれの四肢を動かし、這うようにして鉄格子の扉へ向かった。
手足の自由は得たが、扉は閉ざされている。
しかし、今のリリスにとって、それは障害ではない。
彼女は砕けた手首を掲げた。
意識を集中させる。
魔封じの枷はもうない。
体内を巡る魔力が、痛みと共に目覚める。
「咲け……」
詠唱など不要だ。
本能が命じるまま、彼女は異能を行使する。
血に濡れた手首の傷口から、真紅の茨が勢いよく飛び出した。
それは自らの血肉を養分として成長する、死と再生の植物。
茨は鉄格子の鍵穴に侵入し、内部の機構を強引に破壊し、押し広げる。
ガキン。
金属が破壊される音が響き、重い鉄扉がゆっくりと開いた。
リリスは茨を収束させ、よろめきながら立ち上がった。
足首の痛みが脳を揺らすが、彼女は壁に手をついて身体を支えた。
血の足跡を残しながら、彼女は地上へと続く階段を上り始める。
一歩進むごとに、激痛が走る。
一歩進むごとに、命が削れる。
それでも、彼女は止まらない。
階段の先には、光がある。
炎の光。
戦いの光。
そして、守るべき家族がいる場所。
リリスは血塗れの唇を開き、闇に向かって小さく呟いた。
「今、行きます」




