逃げて!
東の空を焦がす紅蓮の炎は、夜の闇を食い破り、サラスの街並みを不吉な橙色に染め上げた。
遅れて届いた爆音と衝撃波が、石畳を揺らし、建物の窓ガラスを震わせる。
オーギュストの手から力が抜けず、リリスの首を締め上げる指は、鋼鉄の枷のように食い込んだままである。
彼は燃え上がる塔を見つめ、その瞳孔を針のように収縮させた。
結界の崩壊。
魔族の侵攻。
リリスが告げた言葉は、最悪の形で現実のものとなった。
「……本当だと言うのか」
オーギュストの声は低く、地響きのように重い。
彼は視線をゆっくりとリリスに戻した。
宙に浮いたまま、酸素を求めて喘ぐ少女。
その頬を伝う涙と、訴えかける瞳。
しかし、オーギュストの目に宿ったのは理解や謝罪の色ではなく、より深く、鋭利な疑念の光であった。
情報は正確すぎた。
ギルドに監視されていたはずの彼女が、なぜこれほど詳細に、しかも即座に事態を把握できたのか。
偶然ではない。
彼女は知っていたのだ。
魔族の計画を。
あるいは、彼女自身がその計画の一部であったのか。
「総員、聞け!」
オーギュストはリリスを乱暴に地面へ放り投げた。
石畳に叩きつけられたリリスは、咳き込みながら喉をさすり、必死に空気を吸い込んだ。
オーギュストはその姿を一瞥することなく、周囲の冒険者たちへ怒号を飛ばした。
「東区画の結界が消失した! 魔族の本隊が来るぞ! 第1、第3部隊は東門へ急行し、防衛線を構築せよ! 敵を一歩たりとも市街地へ入れるな!」
冒険者たちが弾かれたように動き出す。
武器を抜き、詠唱を始め、あるいは伝令に走る。
混沌とした喧騒の中で、オーギュストは傍に控えていた二人の屈強な重装戦士を指差した。
「お前たちはこいつを……リリスを地下牢へ放り込め」
リリスは顔を上げた。
「え……?」
「拘束しろ。手足に魔封じの鎖を使え。一切の行動を許すな」
オーギュストの命令は氷のように冷徹だった。
「重要参考人だ。魔族との内通、および都市防衛機能の破壊に関与した疑いがある。尋問は後だ。今はこれ以上、好き勝手な真似をさせるわけにはいかん」
戦士たちがリリスの両腕を掴み、乱暴に立ち上がらせた。
捻じ上げられた関節が悲鳴を上げる。
「待ってください! 違います! 私は……!」
リリスは叫んだ。
自身の潔白など、今はどうでもよかった。
地下牢へ入れられれば、情報を伝えることも、誰かを守ることもできなくなる。
ギルドは標的だ。
メルクリウスは言った。
「ギルドこそが中枢だ。最初に潰す」と。
このままでは、エヴァが、オーギュストが、無防備なまま殺される。
「マスター! お願いです! 聞いてください!」
リリスは身をよじり、引きずられながらオーギュストの背中に向かって叫んだ。
「ギルドが狙われます! 魔族はここを最初に攻撃するつもりなんです! エヴァさんを……みんなを逃がして! 戦わないで、逃げて!」
彼女の声は悲痛な叫びとなり、喧騒の中を切り裂いた。
しかし、オーギュストは振り返らなかった。
彼は既に背を向け、燃え盛る東の空を睨み据え、迎撃の指揮を執る武人の顔になっていた。
「連れて行け」
短い指示と共に、リリスの体は強く引かれた。
「いやっ……! エヴァさん! オーギュストさん!」
リリスの足が石畳を擦り、抵抗の痕跡を残す。
「逃げてぇぇぇっ!!」
その絶叫は、爆発音と怒号の渦にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
リリスは暗い路地へと引きずり込まれ、遠ざかるオーギュストの背中と、炎に照らされたギルドの看板を、涙に滲む視界の最後に焼き付けた。




