共に魔族領へ帰ろう
メルクリウスは地面に両膝をつき、喉が裂けよとばかりに絶叫した。
その声は石畳に反響し、夜の静寂を暴力的に引き裂く。
握りしめられた拳が石畳を打ち、皮膚が裂けて鮮血が滲む。
流れる涙は止まらず、嗚咽が彼の全身を震わせた。
リリスは樫の杖を強く握りしめたまま、その姿を見下ろすことしかできない。
やがて、彼は顔を上げた。
その瞳からは先ほどの激情が波が引くように消え去り、代わりに凍てつくような虚無と、揺るぎない殺意が満ちていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、乱れた衣服を正す。
その動作は冷徹なほどに落ち着いていた。
「……そうか。アイリスは死んだか」
彼は低い声で呟く。
それは問いかけではなく、事実を確認し、心臓の奥底に新たな楔を打ち込む儀式のようだった。
「ならば、尚更だ。彼女を殺したのは人間だ。彼女を追い詰め、絶望させ、死へと追いやったのは、この街に巣食う傲慢な人間たちだ」
メルクリウスは背後の塔を見上げた。
崩れ落ちた魔力回路から、パチパチと音を立てて火花が散る。
夜空に開いた大穴――結界の亀裂からは、どす黒い瘴気が漏れ出し始めていた。
「見ろ、リリス。結界は落ちた。合図は送った。街の外に潜む魔物たちと、我が精鋭部隊が、間もなく雪崩れ込んでくる。このサラスは今夜、灰燼に帰す」
彼はリリスに向き直り、血の滲んだ手を差し出した。
その表情には、同胞を思う切実な色が浮かんでいる。
「来い、リリス。君も被害者だ。人間たちに虐げられ、汚され、尊厳を奪われた。その怒りを、悲しみを、力に変えろ。オレと共に、彼らに報いを与えるのだ」
彼の声は甘美な毒のようにリリスの耳朶を打つ。
「復讐を終えたら、共に魔族領へ帰ろう。そこにはアイリスの墓標を立てよう。我々の手で、彼女の魂を鎮めるのだ」
リリスは唇を噛み締め、首を横に振った。
その瞳に涙が溜まり、月光を受けて輝く。
「……できない」
彼女の声は震えていたが、そこには確固たる拒絶の響きがあった。
「私は行かない。誰も殺したくない」
メルクリウスが眉をひそめる。
「何を言う。彼らは君を奴隷にし、蔑み、石を投げた者たちだぞ。情けをかける価値などない」
「違う!」
リリスは叫び、一歩踏み出した。
「皆がそうじゃない。私を助けてくれた人がいる。名前を呼んでくれた人がいる。私に……生きる場所をくれた人たちがいるの」
脳裏に浮かぶのは、血に塗れて働くエヴァの姿。
不器用な手つきで頭を撫でてくれたギルダ。
厳しい言葉の裏に庇護の意志を隠すオーギュスト。
彼らはリリスを「魔族」ではなく、「リリス」として見てくれた。
「ギルドのみんなは、私の家族なの。だから……お願い、メルクリウスさん。ギルドには手を出さないで。あそこには、怪我をして動けない人たちが大勢いるの。エヴァさんも、魔力がなくて戦えない。お願い……!」
メルクリウスの瞳から、慈愛の色が完全に消え失せた。
彼は無機質な眼差しでリリスを見下ろし、冷淡に吐き捨てる。
「……洗脳か」
「え……?」
「人間に飼い慣らされ、牙を抜かれたか。哀れなことだ。奴らは君を家族だなどと思っていない。ただの便利な道具、あるいはペットとして扱っているだけだ」
彼は背を向け、手を振った。
その仕草は、交渉の決裂と、慈悲の終わりを告げるものだった。
「断る。ギルドこそが、この街の戦力の中枢だ。最初に潰すべき標的だ。我が部隊は既に配置についている。慈悲はない。皆殺しだ」
「やめて……!」
「去れ、リリス。君がオレを討つ気がないなら、見逃してやる。だが、次に会う時は敵だ。アイリスの娘であろうと、容赦はしない」
リリスは息を呑んだ。
説得は不可能だ。
彼の心は、20年の歳月と喪失によって鋼鉄のように冷え固まっている。
彼女は踵を返し、地面を蹴った。
背後から、魔族の咆哮が聞こえ始める。
風に乗って、血の匂いと殺気が漂ってくる。
走らなければ。
一刻も早くギルドへ戻り、皆に知らせなければ。
「はぁ、はぁ、っ……!」
リリスは石畳を駆け抜ける。
肺が焼け付くように熱い。
足がもつれそうになるのを、必死に堪える。
通り過ぎる景色が歪んで見える。
街の灯りが、一つ、また一つと消えていく。
逃げて。
みんな、逃げて。
リリスは心の中で叫び続けた。
彼女の声帯からは、言葉にならない悲鳴だけが漏れていた。
「エヴァさん……ギルダさん……!」
彼女の背後で、夜の闇が大きく口を開け、サラスの街を飲み込もうとしていた。




