楽園から地獄へ
あの日、リリスの世界は、熟れすぎた果実が腐臭を放って崩れ落ちるように、その形を失った。
炎と煙、母の絶叫、そして衛兵の無骨な腕の感触。
それら断片的な記憶は、彼女の十二年間の人生を、幸福という名の薄氷ごと、無慈悲に砕き割った。
楽園と信じていた「バラ園」は、母の絶望が燃え上がらせた煉獄となり、その罪の代価として、母アイリスは公衆の面前で裁かれた。
放火という大罪を犯した危険な魔族。
その判決のもと、彼女は四肢を魔力を封じる特殊な枷で拘束され、意思とは無関係に生き永らえるだけの肉塊へと変えられた。
そしてリリス自身は、まるで荷物のように、マダム・ロザリアとバーンズ子爵との間で交わされた契約書の一条項として、彼の屋敷へと「納品」されたのである。
それは、所有権の移転という、冷たい事務手続きに過ぎなかった。
バーンズ子爵の屋敷は、その壮麗さとは裏腹に、リリスにとって新たな地獄の始まりであった。
彼は、そのねじくれた欲望を満たすための、新しい「おもちゃ」を手に入れたに過ぎなかったのだ。
夜ごと繰り返される、名状しがたい行為。
痛みと屈辱の中で、リリスは、これまで知る由もなかった世界の真実を、その身に直接刻み込まれることによって学んでいった。
自分と母が、人間とは異なる「魔族」という忌み嫌われる種族であること。
母が夜ごと客の寝台で売っていたのは美しい花ではなく、彼女自身の肉体であったこと。
そして、自分自身が「奴隷」という、意思を持つことを許されない所有物であり、その首に刻まれた「バラの印」が、永遠に逃れられぬ隷属の証であること。
言葉による説明は、何一つなかった。
ただ、子爵の卑猥な囁きと、彼の身体が教える、否定しようのない現実だけが存在した。
*ああ、そうか。これが、世界の本当の姿だったのか。私が生きていたあの庭は、ただ、この地獄を覆い隠すための、薄っぺらな舞台装置に過ぎなかったのだ。*
彼女の心は、かつての楽園の記憶を、自ら進んで殺していった。
甘く美しい思い出は、今や、彼女の魂を苛む、最も残酷な毒となっていた。
時は流れ、リリスの心は凍てついた湖面のように、いかなる感情の波紋も映さなくなった。
彼女の日常は、子爵の気まぐれな暴力と、息を潜めてその嵐が過ぎ去るのを待つだけの、色のない時間によって構成されていた。
逃亡という選択肢は、初めから存在しない。
奴隷契約の印は、彼女が僅かでも反抗的な意思を抱くだけで、その身体を内側から焼き尽くす。
しかし、その完全なる暗黒の中に、ただ一つ、か細く、しかし決して消えることのない光があった。
それは、週に一度だけ許される、母アイリスとの面会であった。
子爵邸の地下深く、光の届かない石牢。
そこに、アイリスはいた。
四肢を壁に固定され、その瞳からはかつての輝きが失せ、ただ虚ろに虚空を見つめている。
しかし、リリスがその前に跪き、「ママ」と呼びかける時だけ、その瞳に僅かな光が戻るのだ。
「リリス…無事なのね…よかった…」
その掠れた声を聞くことだけが、リリスが次の七日間を生き延びるための、唯一の理由であった。
ある面会の夜、アイリスは、途切れ途切れに、あの日の真実を語った。
リリスの自由を信じて身を捧げてきたこと。
その全てが、マダム・ロザリアの欺瞞であったこと。
そして、自らの命を賭してでも、娘を逃がしたかったという、母の絶望的な愛を。
「リリス…あなたは、生きなければだめ…あなたが生きていることだけが、私がここにこうして…繋がれている意味なのだから…」
マダム・ロザリアは、アイリスを生かしておくことで、子爵から定期的な「管理費」を得ていた。
そして、その口実は「娘が無事である限り、母親もまた安定した状態を保つ」というものであった。
つまり、リリスの生存が、アイリスの生命維持の唯一の条件となっていたのだ。
もしリリスが死ねば、アイリスは利用価値を失い、即座に処分されるだろう。
その事実は、リリスの心を、希望とは似ても似つかぬ、しかし強烈な力で縛り付けた。
死ぬことすら、許されない。
自らの死は、母の死に直結する。
この絶望的な共犯関係が、彼女に「生き延びる」という、新たな、そして最も重い枷を嵌めたのだ。
それからというもの、リリスは変わった。
彼女は、もはや泣くことも、笑うこともなくなった。
その青い瞳は、どんな美しいものを見ても、どんな汚らわしいものに触れても、ただガラス玉のように無感情にそれらを映すだけだ。
子爵は、時折気まぐれに、彼女に街へ買い物に行く自由を与えた。
それは、逃げられないと知っている奴隷に対する、支配者の傲慢な施しであった。
リリスは、華やかな大通りを歩きながらも、その喧騒も、人々の笑顔も、何一つ彼女の心には届かない。
彼女の視線は、常に現実の向こう側、地下牢の暗闇にいる母の姿を捉えている。
*生きる。生きなければ。ママが、あそこで息をしている限り。私が死ぬことは、ママを殺すことと同じだから。*
かつて、無垢な善意から騎士に花を差し出した少女の面影は、どこにもない。
そこにいるのは、母の命という名の重りを足首に繋がれ、ただひたすらに、この地獄を歩き続けることを運命づけられた、一人の罪人の姿であった。
彼女の心臓は、もはや喜びや悲しみのために鼓動するのではない。
それは、ただ、母の命を繋ぎとめるための、無機質な計時装置と化していた。
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