我々は、被害者なのだ!
崩れ落ちた光の残滓が、雪のように夜空を舞っていた。
サラスの東端、防衛結界の要であった塔の下で、リリスは足を止めた。
息は荒く、肺が凍りつくような冷たさを訴えている。
彼女の視線の先には、破壊された魔力回路の残骸に囲まれ、一人の男が立っていた。
夜風が男の漆黒のコートを揺らし、その隙間から、人間には存在しない捻じれた黒い角が月光を弾いている。
圧倒的な魔力の残滓。
空間そのものが悲鳴を上げているような、歪な圧迫感。
リリスは震える手で樫の杖を握り締め、乾いた喉から声を絞り出した。
「……誰だ」
男はゆっくりと振り返る。
その顔立ちは整っているが、瞳には千年の氷河のような冷徹さと、底知れぬ哀愁が同居していた。
リリスは視線を周囲に走らせた。
瓦礫の陰、崩れた壁の向こう。
探している小さな人影はどこにもない。
「メルは……あの子は、どこにいる」
リリスの声は微かに上擦っていた。
男は答えず、ただ静かにリリスを見つめ返した。
その視線に敵意はなく、むしろ懐かしむような、慈愛に満ちた色が宿っている。
男の輪郭が揺らいだ。
陽炎のように空気が歪み、骨格が軋む音が微かに響く。
長身の青年の姿が収縮し、黒いコートが小さなワンピースへと形を変えた。
そこに現れたのは、リリスが探し求めていた少女だった。
黒い髪、大きな瞳、抱きしめられた古びた人形。
「お姉ちゃん」
少女の口から、聞き慣れた無邪気な声が紡がれる。
リリスは目を見開き、一歩後ずさった。
理解が追いつかない。
少女は悲しげに微笑むと、再びその姿を揺らめかせ、瞬きの間に元の青年の姿へと戻った。
「待っていたよ、リリス姉さん」
男の声は、少女のそれとは異なる、深く落ち着いたバリトンだった。
しかし、その口調には変わらぬ親しみが込められている。
「オレの名はメルクリウス。君がメルと呼んでくれた者だ」
彼は両手を広げ、崩壊した結界の塔を背に、演劇の演者のように優雅に一礼した。
「驚かせてすまない。だが、この姿こそが真実だ」
リリスは杖を構えたまま、動くことができなかった。
脳裏で、少女との思い出が走馬灯のように駆け巡る。
路地裏での出会い。
分け与えたパン。
無垢な笑顔。
その全てが、この青年の演技だったというのか。
「……嘘だ」
「嘘ではない。オレは君と同じ、人間に虐げられ、居場所を奪われた魔族の末裔だ」
メルクリウスは一歩、リリスに歩み寄った。
「君の血の匂い。その瞳の奥にある孤独。オレには分かる。君もまた、人間たちの理不尽な暴力に晒され、魂を削られてきたのだろう」
彼は手を差し出した。
その掌には、破壊の魔力ではなく、温かな勧誘の意志が乗っていた。
「見ろ、この砕けた空を。我らを閉じ込めていた檻は壊れた。同志たちが命を賭して、道を開いてくれたのだ」
彼の瞳が熱を帯びる。
「行こう、姉さん。こんな薄汚い街は捨てて。戦争が終われば、我らの故郷へ帰れる。そこには差別も、迫害もない。我々があるがままに生きられる場所だ」
リリスは、差し出された手を見つめた。
故郷。
魔族の地。
それは、母アイリスが死の間際に夢見た、約束の場所。
しかし、リリスの脳裏に浮かんだのは、血に塗れて働くエヴァの姿であり、不器用な優しさを見せたギルダの顔だった。
「……貴方が、これをやったの」
リリスは周囲の惨状を指差した。
結界の崩壊により、街は無防備となり、多くの人々が恐怖に怯えているはずだ。
第1区画での爆発、ギルドに運び込まれたおびただしい数の負傷者たち。
「貴方が、皆を傷つけたの」
「傷つけた?」
メルクリウスは小首を傾げた。
「違うな。オレたちは、ただ返しただけだ」
彼の表情から笑みが消え、代わりに鋭い刃のような憤怒が浮かび上がった。
「20年前。人間たちが我々の村にしたことを、君は知らないのか」
彼は懐から、一枚の古びた写真を取り出した。
指先でその表面を撫でる仕草は、壊れ物を扱うように繊細だった。
「彼らは聖戦と称して、我々の村を焼いた。女を犯し、子供を殺し、生き残った者を鎖に繋いで連れ去った」
彼の声が低く、地を這うように響く。
「オレの婚約者のアイリス・クリスティーも、奪われた。彼女は泣き叫んでいた。助けを求めていた。だが、人間たちは笑いながら彼女を引きずっていった」
メルクリウスは写真を握りしめた。
「これが正義か? 弱きを踏みにじり、奪い尽くすことが、彼らの言う秩序なのか? 違う。それはただの傲慢だ。強者の理屈だ」
彼はリリスを射抜くように見据えた。
「我々が流した血の量に比べれば、今の破壊など微々たるものだ。彼らは知るべきだ。奪われる痛みを。大切なものを理不尽に壊される絶望を」
彼の背後で、魔力の黒いオーラが揺らめいた。
「オレたちは悪ではない。被害者だ。そして今、正当な裁きを下す執行者となったのだ」




