この瞬間だけは、私は「必要とされている」
フィオナが去った直後、オーギュストは通信機へ向かって怒鳴った。
「総員、第一種戦闘配置。ギルダ、および覚醒級以上の者は直ちに第1区画へ急行せよ。残る者はギルド周辺の警備を固め、市民の避難誘導を行え」
ホールは蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
武装した冒険者たちが武器を手に駆け出し、職員たちが書類を抱えて走り回る。
その喧騒の中心で、オーギュストは冷ややかな視線をリリスに向けた。
「リリス。お前は地下倉庫へ行け」
リリスは顔を上げた。
その言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「そこなら外への抜け道はない。この騒ぎに乗じて逃亡したり、あるいは敵と内通したりする恐れもない」
「……はい」
弁明は無意味だった。
リリスは小さく頷き、二人の屈強な冒険者に両脇を固められ、階段を降りていった。
背後で重厚な鉄扉が閉ざされ、錠が下ろされる音が響いた。
地下倉庫は、カビと埃、そして古い紙の匂いが充満していた。
魔石灯の薄暗い明かりだけが頼りだった。
リリスは木箱の一つに腰を下ろし、膝を抱えた。
天井の遥か上方から、微かに振動と怒号が伝わってくる。
外では何が起きているのか。
メルはどうなったのか。
フィオナは敵を見つけたのか。
情報は一切遮断されていた。
厚い石壁は、音だけでなく、時間の感覚さえも麻痺させる。
「……寒い」
リリスは自身の腕をさすった。
気温のせいではない。
心臓の奥底から湧き上がる冷気が、指先まで凍らせていくようだった。
誰もいない。
誰も来ない。
昨日までの日常が、遥か遠い過去の出来事のように思えた。
エヴァの笑顔も、ギルダの叱咤も、今は暗闇の彼方にある幻影のようだった。
リリスは目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、燃え盛る「煤の底」の光景と、フィオナの冷酷な瞳。
私は、ここで朽ちていくのだろうか。
誰にも知られず、誰にも必要とされず、ただの疑惑の塊として。
闇が、質量を持って彼女を押し潰そうとしていた。
翌朝、鉄扉が開かれる音でリリスは顔を上げた。
入ってきたのはオーギュストだった。
その顔には深い疲労の色が滲み、目元には隈が浮き出ていた。
「立て、リリス。仕事だ」
リリスは強張った足を動かし、よろめきながら立ち上がった。
「……処分が決まったのですか」
「違う。上が酷いことになっている。手が足りない」
オーギュストはそれだけを言い捨て、背を向けた。
リリスが階段を上り、ホールへと足を踏み入れた瞬間、鼻をつく血と膿の臭気が襲ってきた。
そこは地獄だった。
普段は依頼の張り出しや談笑の場であるホールが、負傷者で埋め尽くされていた。
床には簡易寝台や毛布が敷き詰められ、包帯を巻かれた男たちが呻き声を上げている。
第1区画での戦闘は、想像を絶する激戦だったようだ。
その中央で、エヴァが必死に動いていた。
「止血を! こっちは解毒薬が必要よ! 誰か、魔力ポーションを!」
エヴァの声は枯れ、その白衣は赤黒く汚れ、顔色は死人のように白かった。
彼女の周囲には、重傷者が列をなしている。
「エヴァ一人では回らん。お前はあいつの補助に入れ」
オーギュストはリリスの背中を押し、傍らに立つ監視役の冒険者に目配せをした。
「妙な真似をすれば、即座に斬れ」
監視役の男が剣の柄に手をかけたまま、無言で頷く。
リリスは唇を噛み締め、エヴァの元へ走った。
「エヴァさん!」
エヴァが顔を上げた。
虚ろだった瞳に、リリスの姿を認め、微かな光が戻る。
「リリス……? どうして、ここに……」
「指示してください。何でもやります」
リリスはエヴァの手を取り、その冷たさに驚愕した。
魔力枯渇寸前だ。
「……お願い。あそこの、裂傷のひどい人の止血を。それから、そっちの棚から火傷用の軟膏を」
「分かりました」
リリスは即座に動いた。
「触るな! 魔族の手で俺を殺す気か!」
リリスが包帯を巻こうとした冒険者が、彼女の手を振り払った。
傷口から鮮血が噴き出す。
リリスは表情を変えず、静かに、しかし力強くその男の手首を掴んだ。
「暴れないでください。出血多量で死にます」
彼女の声は低く、冷静だった。
男が気圧された一瞬の隙に、彼女は手際よく傷口を洗浄し、止血帯を巻き、薬草を塗り込んだ。
その動作に迷いはなく、無駄もなかった。
長年、傷を手当てし続けてきた経験が、ここで生きていた。
「……っ」
男は痛みに顔を歪めたが、傷の痛みが引いていくのを感じ、口を噤んだ。
リリスは休むことなく、次の患者へ向かう。
「水……水をくれ……」
「今、お持ちします」
「足が……俺の足は……」
「大丈夫です、繋がっています。動かさないで」
リリスはホール中を走り回った。
汚れた包帯を回収し、床の血を拭い、水を運び、重い患者の体を支えた。
監視役の視線は常に背中に突き刺さっていた。
周囲からの「汚らわしい」「近寄るな」という囁きも止まなかった。
だが、リリスは手を止めなかった。
今、この瞬間だけは、私は「必要とされている」。
たとえ道具としてであっても、私の手が誰かの命を繋ぎ止めている。
その事実だけが、彼女の精神を支えていた。
昼過ぎ、一人の若手冒険者が運び込まれた。
腹部を大きく裂かれ、内臓が見えるほどの重傷だった。
「エヴァさん! こっちです!」
リリスが叫ぶが、エヴァは別の患者の蘇生措置中で手が離せない。
「リリス、お願い! 圧迫止血を! 魔力が回復するまで持たせて!」
リリスは若者の腹部に両手を当て、全体重をかけて押さえ込んだ。
温かい血が指の間から溢れ出し、彼女の作業着を染める。
「死ぬな……死ぬな……!」
リリスは祈るように呟き続けた。
若者の顔色が土気色になり、呼吸が浅くなる。
彼女は自身の魔力を微かに練り上げた。
本来なら禁じられている行為だ。
だが、このままでは死ぬ。
彼女は植物の生命力を模した微弱な魔力を、手のひらから若者の傷口へと流し込んだ。
細胞の壊死を遅らせ、血流をわずかに制御する。
それは魔法と呼ぶにはあまりにささやかな、しかし確かな延命措置だった。
数分後、エヴァが駆けつけ、本格的な治癒魔法を施した。
傷口が塞がり、若者の呼吸が安定する。
「……助かった……」
エヴァはその場に座り込んだ。
リリスは血まみれの手を膝に置き、荒い息を吐いた。
周囲が静まり返っていた。
その場にいた冒険者たちは、血に塗れながらも必死に仲間の命を繋ぎ止めたリリスの姿を見ていた。
その瞳に、かつてのような純粋な恐怖や憎悪だけではない、戸惑いと、ある種の畏敬が混ざり始めていた。
「……水だ」
先ほどリリスの手を振り払った男が、コップを差し出した。
「あいつに、飲ませてやれ」
監視役の男が無言でコップを受け取り、リリスに手渡した。
リリスは驚きに目を見開いたまま、そのコップを受け取った。
冷たい水が、乾いた喉を潤していく。
それは、ほんの僅かな変化だった。
だが、確かに、氷が解けるような微かな音が、ギルドの中に響いた気がした。




