居場所は…なくなった
真実とは、時として刃よりも鋭く、人の築き上げた脆弱な絆を断ち切る力を持つ。
リリスが自らの血の秘密を告白した翌日、ギルド「鉄槌と坩堝」の空気は、まるで葬儀の後のように、重く、冷たく、そして決定的に変質していた。
それは、目に見えるものではない。
しかし、皮膚を刺すような、確かな敵意と拒絶の気配だった。
厨房に立つリリスは、昨日と同じように、黙々と野菜を刻んでいた。
包丁がまな板を叩く、乾いた、規則的な音だけが、彼女の世界の全てだった。
だが、背後で交わされるひそひかな囁き声は、どれだけ作業に集中しようとも、彼女の耳を執拗に苛む。
「おい、見たか。あれが、魔族の……」
「静かにしろ、聞こえるだろ。だが、ギルドマスターはなぜあんなものを……」
「いつ、俺たちに牙を剥くか分かったもんじゃない」
かつて、彼女の戦いぶりを賞賛し、その実直さを労ってくれた者たちの声。
今、その声は、粘りつくような好奇と、隠しようのない恐怖、そして侮蔑の色を帯びていた。
彼らは、リリスが視線を向けると、慌てて目を逸らし、あるいは、わざとらしく背を向ける。
まるで、汚れたものに触れるのを避けるかのように。
*これが、現実。これが、私が招いた、結果。*
リリスは、まな板の上のニンジンに、より一層、力を込めた。
感情を殺せ。
何も感じるな。
ただ、与えられた仕事をこなす機械になれ。
そうでなければ、この心は、今度こそ、粉々に砕け散ってしまうだろう。
信頼という名の脆いガラス細工は、一度砕ければ、二度と元には戻らない。
その破片が、ギルドの床中に散らばり、誰もがその上を、慎重に、そして冷たく踏みつけて歩いていた。
「リリス」
不意に、背後からかけられた声に、リリスの肩が微かに震えた。
振り返ると、そこにエヴァが立っていた。
その顔には、心配と、そしてどうしようもないほどの罪悪感が、貼り付いていた。
「少し、休んだら? 顔色が、良くないわ」
その言葉は、いつものように優しかった。
だが、その響きは、どこか遠く、ぎこちなかった。
エヴァは、リリスに近づこうとして、一歩踏み出し、そして、ためらうように足を止める。
その数メートルの距離が、二人を隔てる、決して越えることのできない、深い淵のように感じられた。
監視者と、被監視者。
オーギュストが下した裁定は、二人の関係を、そのように規定してしまった。
「……大丈夫です、エヴァさん。これは、今日の私の仕事ですから」
リリスは、作り物の笑顔を浮かべた。
その笑顔が、エヴァの心をナイフのように抉ることを、彼女は知らなかったし、エヴァもまた、自分のぎこちなさがリリスをどれだけ深く傷つけているのか、正確には理解できていなかった。
*違う。こんなことが言いたいんじゃない。ごめんなさい、リリス。私が、もっと強ければ。私が、あなたを守れていれば……。*
エヴァは、喉まで出かかった言葉を、何度も飲み込んだ。
今、どんな慰めの言葉も、監視者という立場から発せられる以上、それは偽善にしか聞こえないだろう。
その事実が、彼女を苛み、そして、二人を隔てる透明な壁を、より一層厚く、強固なものにしていく。
「そう……。でも、無理はしないでね」
エヴァは、それだけを言うのが精一杯だった。
彼女は、逃げるように踵を返し、医務室へと戻っていく。
その背中を見送りながら、リリスは、ゆっくりと、握りしめていた包丁を置いた。
指先が、冷たく、震えていた。
愛する人にさえ、警戒されている。
その事実は、彼女が今まで経験してきた、どんな肉体的な苦痛よりも、深く、そして静かに、彼女の魂を蝕んでいった。
感情を押し殺し、現実から逃避するように、リリスはギルドの仕事に没頭した。
厨房の清掃、武具の研磨、倉庫の整理。
誰に命じられるでもなく、彼女は自ら仕事を見つけ、体を動かし続けた。
だが、その献身的な働きぶりは、もはや誰の目にも留まらなかった。
それはただ、異質な存在が、自らの罪を償うために行う、当然の贖罪行為と見なされるだけだった。
生活のためには、冒険者としての依頼もこなさなければならない。
数日後、リリスは意を決して、ギルドの依頼掲示板の前に立った。
そこには、ゴブリンの討伐、沼地の調査、貴族の護衛など、様々な依頼書が貼られている。
覚醒級の冒険者である彼女ならば、そのほとんどをこなすことができた。
問題は、その大半が、複数人でのチーム編成を推奨する、高難易度の依頼であるということだった。
リリスは、近くにいた、顔見知りの剣士に声をかけた。
「あの……もし、よろしければ、あのオークの討伐依頼、ご一緒できませんか?」
その剣士は、リリスの顔を見ると、一瞬、ぎょっとしたように目を見開き、そして、慌てて視線を逸らした。
「あ、ああ……悪いな。俺はもう、別の奴と組むことになってるんだ。じゃあな」
彼は、早口でそう言うと、そそくさとその場を立ち去っていった。
それは、始まりに過ぎなかった。
彼女が声をかけた冒険者たちは皆、一様に、気まずそうな顔で、あるいはあからさまな拒絶の態度で、彼女との同行を断った。
誰も、魔族の血を引く者と、背中を預け合って戦うことなど、望んではいなかった。
リリスは、ただ一人、誰も寄り付かなくなった掲示板の前で、立ち尽くすしかなかった。
かつては仲間たちの熱気で満ちていたその場所が、今はまるで、彼女一人を拒絶するためだけに存在する、巨大な壁のように思えた。
結局、彼女が受けることができたのは、一人でも可能な、街の近郊での薬草採取という、駆け出しの冒険者がやるような、ごく簡単な依頼だけだった。
その報酬は、わずか50ドル。
生活を維持するには、あまりにも心許ない金額だった。
森は、何も変わらなかった。
木々のざわめきも、土の匂いも、以前と何ら変わりはない。
だが、それを受け止めるリリスの心は、もはや以前の彼女ではなかった。
彼女は、詠唱を口ずさむ。
「虚ろなる大地に根を張り、血の記憶を啜る者よ。我が憎悪を糧とし、その咎を棘と化せ。咲き誇れ――【紅茨】」
かつて、オーギュストに教わった、偽りの詠唱。
それが今では、彼女の凍てついた感情を呼び覚ます、唯一の引き金となっていた。
茨の触手が、牙を剥く森狼を貫き、その命を養分として、深紅のバラを咲かせる。
その光景を見ても、彼女の心は、もはや何も感じなかった。
罪悪感も、高揚感も、ない。
ただ、任務を遂行するという、冷たい目的意識だけが、彼女を動かしていた。
数時間後、依頼された薬草を籠いっぱいに集めたリリスは、ギルドへと戻った。
カウンターの向こうには、依頼主である、薬屋の老婆が待っていた。
「……ご苦労だったね」
老婆は、リリスが差し出した薬草の品質を、無言で検分すると、カウンターの上に、約束の50ドルを置いた。
それだけだった。
以前、同じ依頼をこなした時、この老婆は、リリスの手に感謝の言葉と共に、追加の報酬を握らせてくれたはずだった。
「ありがとう、助かったよ」と。
だが今、その言葉はなかった。
老婆は、リリスの顔をまともに見ようともせず、ただ、金銭の受け渡しという、事務的な手続きを終えると、さっさと背を向けて去っていった。
その無言の拒絶は、どんな罵詈雑言よりも、リリスの心を深く抉った。
感謝される価値もない。
それが、今の自分。
リリスは、カウンターに置かれた数枚の紙幣を、震える手で握りしめた。
その紙切れが、ひどく、ひどく、重く感じられた。
その夜、リリスは、ギルドの自室の、冷たい床の上で、膝を抱えて座っていた。
窓の外からは、酒場で盛り上がる冒険者たちの、楽しげな声が聞こえてくる。
その声は、分厚い壁を隔てていても、彼女の孤独を嘲笑うかのように、はっきりと耳に届いた。
ここは、私の居場所だったはずだ。
エヴァがいて、ギルダがいて、オーギュストがいた。
不器用ながらも、私を受け入れ、守ってくれた人たちがいた。
私は、もう独りではないのだと、そう、信じていた。
しかし、それは、全て幻想だった。
血という、決して変えることのできない、たった一つの事実が、その全てを破壊した。
信じている、と彼は言った。
だから、監視するのだ、と。
それは、信頼などではない。
それは、鎖に繋がれた猛獣を、檻の中から眺めるのと、何ら変わりはない。
いつか牙を剥くかもしれないという、前提に立った、一方的な管理。
信頼という名の、最も残酷な檻。
リリスは、ゆっくりと顔を上げた。
そのガラス玉のような瞳に映るのは、月明かりに照らされた、自分のやつれた姿だけだった。
もはや、涙も出なかった。
ただ、心の奥底で、何かが、ぷつりと、切れる音がした。
光が、消える。
希望が、死んでいく。
彼女は、静かに、その深い、深い、闇の中へと、沈んでいった。
またの日。
森は静寂に包まれ、木々の緑は午後の日差しを浴びて鮮やかに輝いているが、その色彩はリリスの瞳には届かない。
彼女は巨大なオークの木の根元に腰を下ろし、膝を抱えたまま、ただ前を見つめている。
手元には、泥にまみれた籠が一つ。
中には、今日一日かけて集めた薬草が無造作に放り込まれている。
それが、今の彼女に許された唯一の労働であり、生存の証明だった。
鳥のさえずりが聞こえる。
風が葉を揺らす音がする。
小川のせせらぎが遠くに響く。
世界は、変わらず美しく、そして無関心に回り続けている。
けれど、彼女の中にある時間は止まったままだ。
ギルドでの冷ややかな視線、背中に突き刺さる囁き声、そしてエヴァのぎこちない笑顔。
それらの記憶が、有刺鉄線のように心臓に巻き付き、息をするたびに締め上げる。
動く気力が湧かない。
立ち上がり、あの冷たい石造りの建物へ帰る理由が見つからない。
そこで待っているのは、温かい出迎えではなく、監視という名の管理された生活だ。
仲間だと思っていた人々の瞳に浮かぶ、怯えと拒絶の色だ。
リリスは、瞬きさえ忘れたかのように、虚空の一点を凝視し続けている。
その姿は、魂をどこかへ置き忘れてきた人形のようであり、あるいは、とっくに枯れてしまった花が、ただ茎だけで辛うじて立っているかのような、痛々しい脆さを漂わせていた。
太陽が空の頂点から西へと傾き、木々の影が長く伸びていく。
光の色が黄金色から茜色へと変わり、やがて紫色の帳が空を覆い始めても、彼女は指一本動かそうとはしなかった。
ただ、そこに在るだけの、空っぽの器として、森の闇に溶け込もうとしているかのようだった。
その様子を、遠く離れた木立の影から、一人の男が見つめていた。
白銀の儀礼鎧は、森の闇に隠れるにはあまりに不向きだが、彼、ゼノンは熟練の気配遮断によって、その存在を完全に消していた。
帝国の英雄、断罪の槍。
かつて数多の魔族を屠り、人々から称賛を浴びた彼が今、行っているのは、たった一人の少女の監視という、あまりにも惨めな任務だった。
ゼノンの碧眼は、リリスの小さな背中を捉え続けていた。
その背中が、あまりにも小さく、そして孤独に見え、彼の胸を鋭い痛みが貫く。
彼は知っていた。
彼女がどれほど努力してきたかを。
この街に来てからの彼女の働きぶり、仲間を助け、危険な任務に率先して挑み、信頼を勝ち取ってきたその軌跡を、報告書を通じて知っていた。
彼女は、自らの出自という呪いを乗り越えようと、血の滲むような思いで足掻き、ようやく小さな居場所を手に入れたはずだった。
だが、その全ては、「魔族の血」というたった一言によって、砂上の楼閣のように崩れ去った。
彼女がどれだけ誠実であっても、どれだけ他者に尽くしても、その事実は変わらない。
人々は彼女の行いではなく、彼女の血を見て、恐怖し、拒絶した。
それが、人間の限界なのか。
それとも、自分たちが守ろうとしている「正義」の正体なのか。
ゼノンの手甲に覆われた拳が、音を立てて握りしめられる。
助けに行きたい。
あそこへ行って、彼女の隣に座り、かけるべき言葉も見つからないまま、ただ一緒にいてやりたい。
かつて、あの祝賀会で彼女の手を振り払った、その償いをしたい。
しかし、彼にはそれができなかった。
彼もまた、組織の歯車であり、フィオナやリアム、そして帝国という巨大な意思に縛られた存在だった。
今、彼がリリスに接触すれば、それは彼女をさらなる窮地へ追い込むことになるかもしれない。
無力だ。
英雄などと呼ばれながら、たった一人の少女の孤独さえ、癒やすことができない。
ゼノンは、木に背を預け、天を仰いだ。
葉の隙間から見える空は、血のように赤く染まっている。
我々の正義とは、一体何だ。
魔族を殺し、人々を守る。
その大義名分の下で、我々は一体どれだけのものを踏みにじってきたのか。
この少女は、何も悪いことはしていない。
ただ、望まぬ血を引いて生まれ、過酷な運命に翻弄されながらも、必死に生きようとしただけだ。
それなのに、世界は彼女に、生きる場所さえ与えようとしない。
魔族だから、信用できない。
その理屈は、あまりにも正しい。
そして、あまりにも冷酷だ。
英雄の鎧は、今はただの重い鉄屑のように、彼の身体と心を、その場に縫い止めていた。
「ごめんなさい。」
かつて、娼館で彼女に残した言葉が、亡霊のように蘇り、彼の耳元で囁き続けていた。




