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信頼という名の、首輪

その日の午後、リリスはギルドの厨房で、黙々と野菜の皮を剥いていた。


レストランでの一件以来、彼女は意識的に、より一層仕事に没頭するようになった。


思考を停止させ、手を動かし続けることだけが、胸の内に渦巻く黒い霧から逃れる唯一の方法だったからだ。


フィオナの冷たい視線、メルの謎めいた言葉、そして何よりも、日に日に近づくエヴァとの別離。


それらの不安から目を背けるように、彼女はただひたすらに、ジャガイモの皮を薄く、均一に剥き続けた。


ギルド内の空気が、ここ数日で微妙に変化していることには、彼女も薄々気づいてはいた。


仲間であるはずの冒険者たちが、時折向ける、探るような視線。


以前は気さくに交わされていた会話が、彼女が近づくと不自然に途切れること。


それは、かつて煤の底で、誰もが互いを警戒し、値踏みしあっていた頃の空気に、どこか似ていた。


その予感は、彼女の心を冷たく締め付けたが、リリスはそれを顔には出さなかった。


彼女には、もう嘆く権利などない。


エヴァとの残された時間を、穏やかに過ごすこと。


それが、今の彼女に課せられた、唯一にして絶対の目標だった。


「リリス」


不意に、背後から低い声がかかった。


オーギュストだった。


「少し、いいか。執務室まで来てくれ」


その声は、いつもと変わらぬ、厳格で、しかしどこか父性を感じさせる響きを持っていた。


リリスは、手にしていた包丁を置くと、エプロンで手を拭いながら立ち上がった。


「はい、ギルドマスター」


きっと、次の任務の話だろう。


あるいは、先日提出した討伐報告書の不備についての叱責かもしれない。


彼女は、何の疑いも抱かずに、オーギュストの背中に続いて、厨房を後にした。


廊下を歩く彼の背中は、いつものように広く、頼もしかった。


それが、これから彼女を待ち受ける審判の場の、入り口であることなど、知る由もなかった。


執務室の重厚な扉を開けた瞬間、リリスの全身に、見えない氷の針が突き刺さるような緊張が走った。


部屋の中には、オーギュストだけではなかった。


窓際に立つギルダは、腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で、窓の外の灰色の空を眺めている。


そして、その隣には、エヴァがいた。


彼女は、椅子に座り、血の気の失せた顔で俯いている。


その手は、膝の上で固く、固く握りしめられていた。


部屋の空気は、まるで嵐の前の静けさのように、重く、張り詰めていた。


誰も、一言も発しない。


ただ、魔石灯が時折ぱちりと音を立てるのだけが、この異常な静寂を破っていた。


何かが、おかしい。


リリスの生存本能が、けたたましく警鐘を鳴らす。


これは、ただの業務報告ではない。


これは、尋問だ。


彼女は、ゆっくりと扉を閉めると、まるで被告人のように、部屋の中央に立った。


部屋の中には、三人の人物がいた。


机の向こうに、厳しい表情で腕を組むオーギュスト。


その隣には、苦虫を噛み潰したような顔で、忌々しげに髭を捻るギルダ。


そして、部屋の隅の椅子に、顔を青ざめさせ、固く唇を結んで座っているエヴァ。


誰も、口を開かない。


ただ、三対の視線が、まるで罪人を審問するかのように、リリスの一挙手一投足に突き刺さる。


それは、今まで彼女がこのギルドで感じたことのない、冷たく、査定するような空気だった。


エヴァは、リリスと目が合うと、苦しげに視線を逸らした。


その仕草が、リリスの心臓を鷲掴みにした。


何かが、おかしい。


何かが、決定的に、壊れてしまった。


「……リリス」


長い沈黙を破り、オーギュストが口を開いた。


その声は、いつもよりも低く、重く響いた。


「単刀直入に聞く。貴様の血について、このギルドで噂が立っている。……お前は、魔族の血を引いているというのは、真か?」


その言葉は、雷鳴のようにリリスの頭上で轟いた。


噂。


レストランでの、フィオナとの一件。


あれが、原因か。


彼女は、初めて、自分が仲間たちからどのような目で見られていたのかを、理解した。


受付の男の、あの視線の意味を。


エヴァの、あの苦しげな表情の意味を。


信頼が、音を立てて崩れていく。


自分が積み上げてきた、ささやかな居場所が、足元から崩壊していく感覚。


絶望が、冷たい水のように、足元から這い上がってきた。


*ああ、やはり。どこへ行っても、私は……。*


リリスは、ゆっくりと顔を上げた。


そのガラス玉のような瞳には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。


諦観と、そして、全てを投げ出すような、空虚な静寂だけがあった。


「……はい。その通りです」


彼女の答えは、静かだったが、部屋の隅々まで、明瞭に響き渡った。


その言葉を聞いた瞬間、ギルダは忌々しげに舌打ちをし、エヴァは「ああ……」と、か細い呻きを漏らして、手で顔を覆った。


オーギュストだけが、表情を変えずに、リリスをじっと見つめ続けていた。


「全て、話せ。貴様の出自、そして、なぜそれを隠していたのかを」


それは命令だった。


拒否権など、最初から存在しない、絶対的な命令。


リリスは、観念したように、静かに息を吸った。


そして、まるで遠い昔の物語を語るかのように、その唇を開いた。


「私の母は……アイリスは、人間と魔族の間に生まれた、いわゆる雑種でした。彼女自身も、自分の父親が誰なのかは知らなかったと聞いています」


彼女は、感情を排した、淡々とした口調で語り始めた。


「先の大戦で、母が住んでいた村が神聖ルミナール帝国軍に焼かれ、彼女は戦争捕虜として捕らえられました。そして……商品として、ドラコニア共和国の花街に在る、バラ園という娼館に売り飛ばされたのです」


「……」


「そこで、母は、客の一人との間に、私を身籠りました。父が誰なのかは、分かりません。母も、知らなかったでしょう。私は、娼館の片隅で、名も知らぬ男の血と、忌み嫌われる魔族の血を受け継いで、生まれました」


彼女の告白は、衝撃的な内容であったにもかかわらず、その語り口は、まるで他人の歴史を読み上げているかのように、平坦だった。


それは、あまりにも過酷な過去を語るために、彼女自身が編み出した、心を守るための唯一の方法だった。


彼女は続けた。


バーンズ子爵に買われ、性奴隷となったこと。


祝賀会での絶望。


そして、母と共に、法も秩序もない最下層の貧民窟「煤の底」へと売り飛ばされたこと。


その地獄の中で、母を守るために、自らの身体と心を、男たちの暴力に差し出し続けた日々を。


その全てを、涙一つ見せず、声の調子一つ変えずに、語り終えた。


しかし、彼女は一つのことだけを、その心の最も深い場所に隠した。


メル。


あの路地裏で出会った、孤独な少女のことだけは、一言も口にしなかった。


フィオナの冷たい瞳と、メルが一人で膝を抱えていた姿が、脳裏で重なる。


この厄介事に、あの無垢な魂を巻き込むわけにはいかない。


それは、彼女に残された、最後の、そして唯一の意地だった。


リリスが語り終えた後、執務室は、墓場のような沈黙に支配された。


エヴァは、もう声を殺すこともせず、両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いていた。


彼女の慈愛に満ちた心は、リリスが背負わされてきた、あまりにも過酷な運命に耐えきれなかった。


ギルダは、目を固く閉じ、その頑強な顔を苦渋に歪ませていた。


魔族への憎悪。


しかし、目の前で全てを告白した少女への、同情と憐れみ。


二つの相反する感情が、彼女の中で激しくせめぎ合っていた。


やがて、オーギュストが、重々しく口を開いた。


「……分かった。貴様の過去は、理解した」


彼は、一度言葉を切り、厳しい視線で、リリス、ギルダ、エヴァの三人を順に見回した。


「この件、ギルドマスターとして、私が裁定を下す」


オーギュストは立ち上がり、ゆっくりとリリスの前まで歩いてきた。


そして、その歴戦の武人の、大きな手を、彼女の肩に置いた。


「リリス。お前は、これからも鉄槌と坩堝の一員だ。それは変わらない」


その言葉に、リリスは僅かに目を見開いた。


追放される。


あるいは、殺される。


その覚悟さえしていた彼女にとって、それは予想外の言葉だった。


「我々は、お前を信じる。お前が、その血に抗い、人間として生きようとしていることを、信じる」


オーギュストの言葉は、温かかった。


だが、その次に続いた言葉は、その温もりを、一瞬で凍てつかせた。


「――だが、それは無条件の信頼ではない。お前は、今日この時から、我々の監視下に置かれる」


「……え?」


「お前の行動は、全て我々が管理する。単独での長期任務は禁止。定期的に、魔力と精神状態のチェックも受けてもらう。これは、お前を信じるからこその、我々が仲間たちに示す、誠意だ」


信頼という名の、首輪。


仲間であるという証明のための、枷。


リリスは、何も言えなかった。


オーギュストの肩に置かれた手の重みが、彼女の未来そのものの重さのように感じられた。


彼女は、地獄から抜け出したはずだった。


居場所を見つけ、仲間を得たはずだった。


しかし、今、彼女はその仲間たちによって、透明な檻の中へと入れられたのだ。


絶望の色が、再び、彼女の瞳の奥深くに、静かに沈んでいった。

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