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魔族だから

悪意は、粘性の高い毒のように、人の口から口へと伝播する。


レストラン「黄金の獅子亭」での一夜は、サラスの好事家たちの間で、瞬く間に極上の酒の肴となった。


神聖ルミナール帝国の高名な魔導師と、曰く付きの冒険者の少女。


その劇的な対立は、尾ひれがつき、無数の憶測という名の装飾を施されながら、街の隅々へと広がっていった。


そして、その噂がギルド「鉄槌と坩堝」の厚い扉を叩くのに、三日とかからなかった。


「おい、聞いたか? うちのリリスって嬢ちゃんのことだ」


酒場のカウンターで、エールジョッキを傾けていた屈強な斧使いが、声を潜めて隣の仲間へと囁く。


「ああ、あの茨の魔女だろ? レストランで帝国のエルフ様に啖呵を切ったって話か? 景気のいいこった」


「それだけじゃねえ。あの嬢ちゃん……元はドラコニアの貴族様の奴隷で、おまけに、魔族の血が混じってるって話だ」


その言葉が、周囲の空気を凍てつかせた。


魔族。


その単語は、この世界に生きる人間にとって、絶対的な恐怖と憎悪の対象を意味した。


幾度となく繰り返された侵略の歴史、その過程で流された血と涙。


それは、おとぎ話の中の怪物ではなく、現実に存在する、根絶すべき悪であった。


「馬鹿なことを言うな。あの子が? あの、いつも黙って仕事をしてる、真面目な子が?」


別の冒険者が、信じられないというように反論する。


「だが、火のない所に煙は立たねえ。言われてみれば、あの子の戦い方は、少し異常だとは思わねえか? あの茨……まるで、生き物みてえに……」


疑念は、一度生まれると、伝染病のように人々の心に広がっていく。


今までリリスの強さを賞賛し、その実直さを評価していた者たちの視線に、戸惑いと、そして微かな恐怖の色が混じり始めた。


仲間だと思っていた存在が、実は自分たちとは相容れない「敵」の血を引いていた。


その事実は、彼らが築き上げてきた信頼という名の土台を、根底から揺るがすに足る、劇薬であった。


その噂は、当然のように、ギルドの幹部たちの耳にも届いていた。


ギルドマスターの執務室。


重厚な樫の木の机を挟み、オーギュスト、ギルダ、そしてエヴァの三人が、深刻な表情で向かい合っていた。


部屋の空気は、鉛のように重い。


「……魔族の、血」


最初に沈黙を破ったのは、ギルダだった。


彼女は、節くれだった太い指で、自身の赤銅色の髭を苛立たしげに扱きながら、低い声で唸った。


「あの子が元奴隷だってことは、あんたたちから聞いて承知していた。だが、これは……話が違うぞ、オーギュスト」


ドワーフである彼女にとって、魔族は宿敵の中の宿敵だ。


古の時代より、彼らの祖先は、魔族の侵略から地下の王国を守るため、幾度となく血を流してきた。


その憎悪は、骨の髄まで染み付いている。


「分かっている」


オーギュストは、静かに答えた。


彼の顔に刻まれた古傷が、室内の魔石灯の光を受けて、より一層深く見える。


「私も、そこまでは知らなかった。エヴァ、君もか?」


「はい……」


エヴァは、力なく頷いた。


彼女の顔は青ざめ、その唇は微かに震えている。


「私はただ、彼女が酷い虐待の末に逃げてきたのだと……血のことは、何も……」


彼女の脳裏には、レストランでの光景が焼き付いていた。


フィオナの侮蔑に満ちた言葉。


そして、それに反論できず、ただ立ち尽くすことしかできなかった、自分の無力な姿。


*私が、もっとうまく立ち回っていれば。あの場で、リリスを守ることができていれば、こんなことには……。*


罪悪感が、彼女の心を苛む。


噂の発端は、間違いなくあの夜にあった。


そして、その引き金を引いたのは、自分自身の弱さだったのだと、エヴァは自分を責め続けていた。


「どうする、オーギュスト。このまま、あの子をギルドに置いておくわけにはいかんぞ」


ギルダの言葉は、厳しかった。


それはギルドマスターとしての、冷徹な判断だった。


「ギルドの仲間たちが、不安がっている。魔族の血を引く者がいるというだけで、任務での連携にすら、支障が出かねん。最悪の場合、ギルドの評判そのものが地に落ちる」


「……それは、早計だ」


オーギュストは、ゆっくりと首を振った。


「リリスは、我々がその目で見てきた。彼女がどれだけ誠実に働き、仲間を助けてきたか。血がどうであれ、彼女の魂は、そこらの人間よりもずっと気高い。それを、ただの噂で断じていいものか」


「綺麗事だ!」


ギルダが、拳で机を叩いた。


重い音が、部屋に響く。


「あんたも分かっているはずだ! 魔族の血は呪いだ! いつ、その本性が牙を剥くか分からん! 我々は、仲間たちの命を預かっているんだぞ!」


「だからこそ、だ」


オーギュストは、ギルダの激昂を、静かな、しかし揺るぎない視線で受け止めた。


「だからこそ、我々が見極めねばならん。彼女が、我々の信じるに足る人間であるかどうかを。……少なくとも、私は、あの子を信じたい。煤の底から彼女を救い出し、このギルドに連れてきたのは、我々なのだから」


その言葉に、ギルダはぐっと押し黙った。


「私も……私も、リリスを信じます」


エヴァが、震える声で、しかしはっきりと意思を告げた。


「彼女は、私のために、自分の全てを投げ出してくれました。あんなに優しくて、あんなに不器用な子が、私たちを裏切るなんて、絶対にありえません」


オーギュストとエヴァ、二人の決意を前に、ギルダは深いため息をついた。


「……分かった。あんたたちがそこまで言うなら、今は、私もそれに従おう」


彼女は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。


「だが、これはギルドマスターとしての命令だ。リリスの監視は強化する。そして、本人から、直接、全てを聞き出す。それで、最終的な判断を下す。いいな?」


それは、彼らが下せる、ギリギリの妥協点だった。


リリスを信じる。


しかし、無条件ではない。


その決断は、彼らとリリスの間に、今まで存在しなかった、透明だが、確実な壁を作り出した。

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