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英雄の再来

任務によって再び満たされた革袋の重みは、リリスにとって、エヴァの笑顔と交換するための、ただの引換券に過ぎなかった。


その金属の冷たさは、彼女の心の空虚さを埋めることはなく、むしろ、失われゆく温もりとの対比によって、その虚無をより一層際立たせるばかりであった。


彼女は、その報酬のほとんどをたった一つの夜のために投じることを、何のためらいもなく決断した。


向かった先は、サラスの貴族街にひっそりと佇む、街で最も格式高いと言われるレストラン「黄金の獅子亭」。


その扉は、リリスのような身分の者が、本来決して開けることのできない、重厚な階級の壁そのものであった。


しかし、今の彼女は違う。


覚醒級冒険者という身分、そして手にした大金が、その壁を一時的に取り払う。


「……今宵、二人分の席を」


受付の男が、リリスの簡素な服装と、その手に握られた報酬袋を見比べて、露骨に侮蔑の色を浮かべた。


だが、彼女が袋の中身をカウンターにぶちまけ、金貨が硬質な音を立てて転がった時、男の顔から侮りは消え、卑屈なまでの恭順へと変化した。


(金が、扉を開ける。金が、人の態度を変える。)


それは、彼女が娼館で学んだ、世界の残酷な真理の一つだった。


彼女は、その夜の予約を済ませると、何も言わずにレストランを後にした。


背後で男が慌てて金貨をかき集める音が、やけに耳障りに響いていた。


その夜、リリスは、先日購入したばかりの、まだ袖を通していない一番上等のブラウスに身を包み、エヴァの部屋の扉を叩いた。


「エヴァさん、今夜は、私に付き合ってください。とっておきの場所があるんです」


そう言って微笑むリリスの完璧な笑顔に、エヴァは息を呑んだ。


その瞳の奥に揺らめく、深い悲しみの影に気づかないほど、彼女は鈍感ではなかった。


しかし、その健気なまでの献身を、彼女は拒絶することができなかった。


「黄金の獅子亭」の壮麗なエントランスを前に、エヴァは気圧されて立ち尽くした。


磨き上げられた大理石の床、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア、そして壁を飾る豪奢な絵画。


その全てが、自分たちがいるべき場所ではないと、雄弁に物語っていた。


「リリス……ここは……」


「今夜は、いいんです」


リリスはエヴァの手を取り、その不安を振り払うかのように、力強く言った。


「エヴァさんは、私の恩人です。世界で一番素晴らしいもてなしを受ける権利があります」


二人は、窓際の最も良い席へと案内された。


銀の食器が魔石灯の光を反射してきらめき、テーブルには見たこともないような美しい花が飾られている。


運ばれてくる料理は、どれもが芸術品のように繊細で、口に含むたびに、至福の味が広がった。


「美味しい……」


思わず感嘆の声を漏らすエヴァに、リリスは満足そうに頷いた。


「よかった」


彼女は、ほとんど料理に手をつけることなく、ただ幸せそうに食事をするエヴァの横顔を、その目に焼き付けるように、じっと見つめていた。


(この顔を、覚えていたい。この瞬間を、永遠にしたい。)


しかし、その献身的な眼差しが、エヴァの心を鋭い罪悪感で抉っていることを、リリスは知らなかった。


この豪華な食事の一皿一皿が、彼女が血と泥の中で戦い、稼ぎ出した対価だと思うと、エヴァにはその味を純粋に楽しむことなど到底できなかった。


この食卓は、幸福の仮面を被った、あまりにも悲しい罪悪感の晩餐だった。


幸福と罪悪感が交錯する、歪んだ晩餐の時間は、突如として闖入者によって断ち切られた。


豪奢な両開きの扉が重々しい音を立てて開かれ、2つの人影がレストラン「黄金の獅子亭」へと足を踏み入れると、それまで満ちていた華やかな喧騒は、一瞬にして凍てついた静寂へと変わった。


先頭を行くのは、白銀の儀礼鎧を纏った長身の騎士。


その背後には、冷ややかな美貌を湛えたエルフの魔導師。


誰もが知る、帝国の英雄たち。


断罪の槍ゼノン、冬の森の断罪者フィオナ。


その姿を認めた瞬間、リリスの手から銀のフォークが滑り落ち、硬質な音を立てて皿の上で跳ねた。


カチャン。


乾いた音が、静まり返ったホールに響き渡る。


リリスの視界が歪む。


心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。


忘れるはずがない。


あの顔を。


あの視線を。


かつて、救いを求めて縋り付いた自分を、冷徹な理屈で見下ろした者たち。


自分と母を、絶望の淵へと突き落とす引き金を引いた者たち。


過去という名の亡霊が、まばゆい光の中に実体を持って現れたのだ。


リリスの全身から血の気が引き、指先が氷のように冷たくなる。


彼女は椅子に縫い付けられたように動けず、ただ大きく見開かれた瞳で、彼らを凝視することしかできなかった。


鋭い視線が、リリスを射抜いた。


フィオナだ。


彼女の琥珀色の瞳が、獲物を見つけた猛禽のように細められる。


彼女は優雅な、しかし威圧的な足取りで、リリスたちのテーブルへと歩み寄ってきた。


「……なぜ、貴様のようなものが、ここにいる?」


その声は、冬の夜気のように冷え切っていた。


感情の起伏などなく、ただ事実を確認するような、無機質な響き。


「バーンズ子爵に売り飛ばされた、魔族の血を引く奴隷が。なぜ、このような人間の場所で、食事などをしている?」


フィオナの言葉に、周囲のテーブルにいた客たちが、好奇と侮蔑の入り混じった視線を一斉に向けた。


ひそひそとした囁き声が、さざ波のように広がる。


奴隷? 魔族?


レストランの華やかな雰囲気は、一瞬にして、罪人を裁く法廷のような冷たさへと変貌した。


リリスの体から、血の気が完全に失われた。


忘れかけていた「奴隷」という言葉が、熱した鉄のように彼女の心を焼く。


彼女は、自分が着飾った美しいドレスの下にある、消えない刻印が熱を持つのを感じた。


どんなに取り繕っても、どんなに強くなっても、彼らの前では、自分はただの汚れた商品に過ぎないのだ。


喉が引き攣り、言葉が出ない。


弁解も、否定も、何もできない。


ただ、震えることしか。


「失礼ですが!」


リリスが恐怖に押し潰されるより先に、凛とした声が響いた。


エヴァが、毅然として立ち上がっていた。


彼女はテーブルを挟んでフィオナと対峙し、その華奢な体でリリスを隠すように立ちはだかった。


「彼女はもはや奴隷ではありません! 私たちのギルド、鉄槌と坩堝が身元を保証する、正式な覚醒級冒険者です!」


エヴァの声は震えていた。


相手は帝国の英雄、逆らえばただでは済まない相手だ。


だが、その瞳には、リリスを守り抜くという、鋼のような意志が宿っていた。


私の大切な人を、これ以上傷つけさせない。


その怒りと愛情が、彼女を突き動かしていた。


しかし、フィオナはエヴァの必死の訴えを、鼻で笑った。


「冒険者だと? 魔族の血が、か? 笑わせるな」


フィオナは冷ややかな目でリリスを見下ろした。


そこには、虫けらを見るような、絶対的な侮蔑があった。


「所詮、汚れた血はどこまで行っても汚れた血だ。いつ裏切るとも知れん。」


フィオナがさらに言葉を重ねようとした時、背後から重い手が彼女の肩を掴んだ。


「……よせ、フィオナ」


ゼノンだった。


白銀の騎士は、苦渋に満ちた表情でリリスを見ていた。


彼の脳裏には、数年前の祝賀会で、自分の足に縋り付いて泣いていた少女の姿が蘇っていた。


そして今、目の前でガタガタと震え、言葉を失っている少女の姿が、その記憶と重なる。


彼女は怯えている。


自分たちに。


それは、かつて自分が彼女を見捨てたという事実が、彼女の中に深い傷として残っている証拠だった。


「彼女は……ただ食事をしているだけだ。騒ぎを大きくする必要はない」


ゼノンの声には、迷いと、隠しきれない罪悪感が滲んでいた。


リリスは、俯いたまま、膝の上で握りしめた拳を見つめていた。


爪が皮膚に食い込み、血が滲む。


悔しい。


悲しい。


怖い。


そして何より、申し訳ない。


自分のせいで、エヴァさんまで侮辱された。


あんなに楽しかった晩餐が、一瞬にして泥にまみれてしまった。


フィオナはゼノンを意にも介さず、その冷徹な視線を再びリリスへと向けた。


「貴様に聞きたいことがある。単刀直入に言え。何か、知っていることはないか」


「……何のことでしょうか」


リリスは、かろうじて声を絞り出した。


「とぼけるな」


フィオナは舌打ちを一つすると、懐から一枚の魔法写真を取り出した。


それは、魔力を流すことで映像を記録、再生できる、高価な魔道具だ。


「先日、このサラス市に、帝国の魔術師が極秘裏に設置した広域防衛結界の設計図が盗まれた。犯人は、この街に潜入していた、魔族のスパイだ」


フィオナはそう言うと、魔法写真をテーブルの上に置いた。


写真には、一人の若い男の姿が、鮮明に写し出されていた。


艶やかな黒髪。


彫りの深い、端正な顔立ち。


そして、その瞳は、闇そのものを溶かし込んだかのように、深く、昏い。


「こいつは、純粋な魔族だ。貴様のような雑種とは、魔力の波長が根源から異なる。だが、同じ魔の血を引く者として、何か感じるところがあるのではないか?」


フィオナの尋問は、静かだが、逃げ場のない圧力を伴っていた。


リリスは、その写真を見た瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。


黒髪……魔族の血……。


脳裏に、あの路地裏で出会った少女の姿が、鮮明に蘇る。


メル。


ガラス玉のような瞳で、自分を見つめていた、孤独な少女。


彼女から感じた、あの魔族の気配。


まさか。


いや、違う。


写真に写っているのは、紛れもなく「男」だ。


年齢も、メルよりもずっと上に見える。


性別も、年齢も、違う。


だが、あの時感じた、血の繋がりを思わせる、根源的な響き。


もし、関係があるとしたら?


もし、自分がメルのことを話せば、あの少女はどうなる?


悪い狼が寄ってくる。


自分が、その狼を呼び寄せることになるのか?


リリスの思考は、一瞬でそこに行き着いた。


彼女は、顔を上げた。


その瞳には、恐怖も、動揺も、何の色も浮かんでいない。


ただ、底なしの静寂があるだけだった。


「……何も、知りません」


リリスは、はっきりと嘘をついた。


「このような男は、見たこともありませんし、何も感じません」


それは、メルを守るための嘘であり、そして何よりも、これ以上厄介事に巻き込まれたくないという、自己保身のための嘘だった。


フィオナは、リリスの返答を、値踏みするように、しばらくの間、無言で見つめていた。


その琥珀色の瞳は、嘘を暴こうとするかのように、リリスの心の奥底まで見通そうとしていた。


やがて、彼女はふいと視線を逸らし、魔法写真を懐にしまった。


「……そうか」


その声には、納得した様子は微塵もなかった。


「ならばいい。だが、覚えておけ。もし、何かを思い出すか、あるいは、この男を見かけるようなことがあれば、直ちに帝国軍の駐屯地に報告しろ。これは、命令だ」


フィオナは一方的にそう告げると、もはやリリスたちには何の興味もないというように背を向け、レストランの喧騒の中へと姿を消していった。


後に残されたのは、完全に白けた空気と、周囲の客からの好奇と蔑みの視線、そして、手付かずのまま冷めていく豪華な料理だけだった。


「リリス、大丈夫……?」


エヴァが、心配そうにリリスの顔を覗き込む。


「……ええ。大丈夫です」


リリスは、再び、あの完璧な笑顔の仮面を顔に貼り付けた。


「さあ、エヴァさん。せっかくの料理が、冷めてしまいますよ。続けましょう」


彼女は、何事もなかったかのようにフォークを手に取り、冷え切った肉を口に運んだ。


味は、もうしなかった。


フィオナ、ゼノンという過去からの呪い。


盗まれた設計図。


そして、謎の少女、メル。


迫りくるエヴァとの離別という、確定した未来の絶望とは別に、全く新しい、予測不能な破滅の足音が、すぐそこまで近づいてきている。


リリスは、その不吉な予兆を胸の内に押し殺し、ただひたすらに、目の前の幸福な晩餐を演じ続けるのだった。

【作者よりお願い】

もし、この物語の中に

ほんの少しでも心に残ったなら、


評価【★★★★★】や、

続きを忘れずに辿っていただくための

【ブックマーク】をしていただけましたら、


それだけで、この物語は救われます。

いつも、ありがとうございます。

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