かっこよかった
リリスの指先が小さく跳ね、握っていた杖を取り落としそうになる。
窓から差し込む光の中で、彼女は微動だにせず、ただ目を見開き、ベッドの上で上半身を起こしたエヴァを凝視した。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響き、呼吸が一瞬止まる。
見られていた。
自分が鏡の前で繰り返し練習していた、あの滑稽なポーズを。
意味も分からず暗記した、あの大仰な言葉を。
恥辱の熱が首筋から頬へと駆け上がる。
リリスは杖を背後に隠そうとし、しかし思い止まった。
オーギュストの低い声が脳裏に蘇る。
お前は今日から魔導師だ。
演じ続けろ
逃げるな。
隠すな。
これは嘘ではない。
自分を守るための、そしてエヴァさんを守るための、新しい皮膚だ。
リリスは震える息を吸い込み、逃げ出しそうになる足を床に縫い付けた。
背後に隠しかけた杖を、再び胸の前へ突き出す。
視線は泳ぎ、指先は白くなるほど杖を握りしめているが、それでも彼女は顎を引いた。
「……み、見……見ていて、ください……」
声が裏返る。
喉が張り付くように乾いていた。
リリスは足を肩幅に開き、先ほど鏡の前で数百回繰り返した動作をなぞる。
杖の先端を、誰もいない空間へ向ける。
「だ、大地に……眠る……と、咎の種よ……」
たどたどしい言葉が、静かな部屋に落ちる。
「わ、我が血を……啜りて……えっと……せん、鮮血の……城壁と、なれ……」
記憶が飛びそうになるのを必死に繋ぎ止める。
杖を持つ手が小刻みに揺れ、先端の安っぽい魔石が光を反射して頼りなくきらめく。
リリスは唇を噛み、最後の言葉を絞り出した。
「穿て……【紅茨】!」
言い切ると同時に、杖を振り下ろす。
何も起きない。
風も吹かず、光も出ない。
ただ、リリスの荒い呼吸音だけが残された。
彼女は肩を怒らせたまま、おそるおそるエヴァの顔を盗み見た。
失敗しただろうか。
おかしいだろうか。
化け物が人間の真似事をしていると、笑われるだろうか。
エヴァは瞬きもせず、その光景を見つめていた。
彼女の脳裏には、昨夜の雨の中で見た、異形の腕で敵を屠るリリスの姿が焼き付いている。
あの時の絶望的なまでの殺意と悲哀。
それに比べれば、今のこの光景は、なんと平和で、なんと愛おしいものか。
エヴァの碧眼が、ゆっくりと細められ、柔らかい弧を描く。
彼女は枕元の手すりに体重を預け、痛む足のことなど忘れたように、両手を合わせた。
パチ、パチ、パチ。
乾いた拍手の音が、リリスの強張った肩を叩く。
「すごい……」
エヴァの声は、温かいスープのようにリリスの胸に染み渡った。
「とっても、強そうで……かっこよかったわ、リリス」
リリスは目を丸くし、ポカンと口を開けた。
「ほ、本当……ですか……?」
「ええ、本当よ。あなたが杖を振った時、空気がビリビリって震えた気がしたわ」
エヴァは悪戯っぽく微笑み、手招きをした。
リリスがおずおずとベッドに歩み寄ると、エヴァはその頭にそっと手を乗せた。
「あなたはもう、立派な鉄槌と坩堝の魔導師ね」
その言葉は、リリスにとって何よりの救済であり、認定証であった。
「魔導師……」
リリスはその言葉を反芻する。
かつて自分を縛り付けた「奴隷」という焼印が、少しずつ薄れていくのを感じる。
自分は、魔導師。
エヴァさんが認めてくれた、守るための力を持つ者。
リリスの瞳に涙が滲んだが、彼女はそれを袖で乱暴に拭った。
「はい……! 私、もっと……もっと練習します!」
リリスは杖を胸に抱きしめ、初めて年相応の、曇りのない笑顔をエヴァに向けた。
その笑顔は、窓の外の五月の陽光よりも眩しく、エヴァの心をも照らした。




